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074 思い出した感覚

 


 職場でも、夕子はずっと笑顔だった。

 遅番の濱口千花(はまぐち・ちか)も、そんな夕子に苦笑し何度もからかってきた。


「ほらほら夕子ちゃん。楽しいのは分かったからさ、そろそろみなさんの手、消毒してくれないかな。もうすぐ夕食がくるよ」


 夕子が笑顔でうなずき、利用者の手にアルコールを吹きかけていく。


「あはははっ。長いこと夕子ちゃんと仕事してるけど、そんな夕子ちゃん初めて見るよ」


「そうですか? 自分ではよく分かりませんけど」


「鏡見てきたらどう? ねえ、山川さんもそう思いますよね」


 そう利用者の一人に声をかけ、意地悪そうに笑った。


「まあでも、夕子ちゃんの楽しそうな顔が見れて、お姉さんも嬉しいよ。これなら次のシフト、殺人的なものにしても大丈夫だね」


「ええっ? ま、まあ、ほどほどになら問題ないですよ。でもできれば、お手柔らかにお願いします」


「あはははははっ。大丈夫だよ、彼氏さんとの時間は作ってあげるから」


「な、なんでそうなるんですか。と言うか、なんで千花さんが彼のことを」


「そんなの見てたら分かるよ。ほんと、夕子ちゃんは分かりやすいんだから」


 そう言って笑うと、利用者たちもつられて笑った。

 夕子は顔を真っ赤にし、運ばれてきた夕食のカートに走っていくのだった。





 深夜0時。

 夕子は巡視に向かった。


 この巡視が終われば、品沢さんに会える。

 考えてみたら、誕生日以来初めて会うんだ。

 ちゃんとお礼、言わないとね。

 そして、これからもよろしくお願いしますと言うんだ。

 今日は煙草、いつもより多く勧めてみようかな。


 そう言えば、石川さんから聞いたことがあった。品沢さんは生前、ピースという煙草を愛用していたらしい。

 コンビニにも置いてあったけど、なんとなく頼みづらかったんだ。だってその煙草、おじさんのイメージがあったから。

 でも、品沢さんの言葉を石川さんから教えてもらって。挑戦してみようかと思った。


「お嬢ちゃんはこうしていつも、わしらにお供えをしてくれる。いつの間にか当たり前になっているが、これは異常なことなんだ。

 死者が生者に物をねだるなんてこと、本来あってはならないんだ。ましてやそのお供え物に注文をつけるだなんて、非礼にもほどがある。

 わしらはお嬢ちゃんの善意に感謝し、敬意を向けるべきなんだ」


 本当、品沢さんらしい。だからこそ、その気持ちに応えたい。

 今度コンビニで、頑張って買ってみよう。品沢さん、驚くかな?

 フィルターのついていないやつ、だったよね。

 居室に入り、おむつ交換をしながら。夕子はそんなことを考えていた。

 そして、それを受け取った時の品沢の驚く顔を想像し、微笑んだ。





 巡視の最後は、あの安城(あんじょう)カスミ。

 彼女がここに入所して、もう一年以上になる。

 最初の頃は本当に辛かった。何度も心が折れそうになった。

 自分に対して向けられる、氷のように冷たい視線。

 自分の何がいけないんだろう、そう思いずっと悩んできた。

 しかし何度も接していく中で、苦手意識は薄らいでいった。

 これは慣れ、なんだろうか。

 安城は相変わらず、自分に対してだけ敵意を向けてくる。

 他のスタッフのように、「ありがとう」なんて言われたことはない。笑顔を向けられたこともない。

 ただただ冷たい視線を向け、時折「痛い」と吐き捨てるだけだ。

 でもそれも、回数を重ねていく内にダメージを受けなくなっていった。

 それより今では、いつか彼女を笑顔にしてみせる、そんな気持ちの方が強くなっている。


「……」


 居室のドアを静かに開ける。

 何というか、相変わらずこの部屋は息苦しい。

 空気が(よど)んでいる、とでも言えばいいのだろうか。

 部屋全体が自分を拒んでいる、そんな風にさえ思われた。

 交換用のパットを手にベッドに向かうと、安城はまだ覚醒していた。

 身動(みじろ)ぎもせず、視線だけを夕子に向ける。


「こんばんは安城さん。おむつ交換のお時間ですので、失礼しますね」


 そう言って掛布団をめくる。そして絶句した。


「……」


 安城はおむつを自らはがしていた。おかげでズボンはおろか、失禁用に敷かれたラバーマット、掛布団、敷布団までもが尿で汚染されていた。

 確認すると、上着もシャツも汚染している。

 夕子は小さく息を吐いた後、笑顔を作って言った。


「安城さん、少しお布団が汚れてますね。服も濡れてるみたいです。すぐに交換しますので、少しの時間辛抱してくださいね」


 そう言ってリネン庫からシーツ一式を取ってくる。箪笥から衣服も取り出し、手際よく交換していった。

 安城は基本、入浴以外でベッドから起きることはない。食事もベッド上で行っている、いわゆる寝たきりの状態だ。車椅子に移乗する際は家族の要望もあり、二人介助が原則になっている。

 こんな深夜に、自分一人で車椅子に移乗させる訳にはいかない。かと言ってもう一人の夜勤スタッフも、今は自分と同じく巡回をしている。

 夕子はやむを得ず、ベッドに寝かせたままシーツ交換することにした。

 何度も彼女の体を移動させ、手際よく交換していく。そして新しいおむつをつけ、更衣を済ませると、既に10分以上が経過していた。

 その間、安城は目を見開いたまま、夕子を見据えていた。

 ただでさえ、彼女との時間を短く済ませたいと思っているのに。彼女の体に負担をかけないよう、気を配っているのに。

 安城のおむつ外しのおかげで、想定以上の時間を費やしてしまった。

 全てが終わった頃には、夕子は汗だくになっていた。

 だが、何とか問題なく終わった。しばらくしたら品沢さんに会える。そう思い、汚染された物を回収しようとした、その時だった。


「下手くそ」


 安城の凍てつくような言葉に、夕子が動きを止めた。


「こんな仕事も満足にできんのか」


 夕子が振り向くと。

 侮蔑を宿した瞳で、安城が睨んでいた。




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