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幽霊さん。今日もお話聞かせてください  作者: 栗須帳(くりす・とばり)
第1章 朝霧夕子と品沢昭典

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008 負けるな

 


 夕子は努力した。安城(あんじょう)カスミと良好な関係を築く為に。

 しかし。

 そんな夕子の思いを、安城は行動で全て否定した。


 どれだけ声をかけても、笑顔を向けても。

 安城は夕子に対し、冷たい視線を向け続けた。

 目を見開き、夕子の一挙手一投足を無言で見つめる。

 それは夕子にとって、苦痛以外の何物でもなかった。

 しかし他のスタッフには、いつも笑顔で「ありがとう」と声をかける。それがまた、夕子を混乱させた。

 何が悪いのか。どうしてこんなことになっているのか。分からなくなっていった。


 そしてそれはいつの間にか、夕子の中に「苦手意識」を育むことになっていった。

 巡回の度にいつも、居室の前でため息をつく。

 入りたくない。会いたくない。

 そんな思いが日に日に強くなっていった。

 そしてそんな感情を自覚した時、夕子の脳裏に「転職」の二文字がよぎるようになっていった。


 この業界には、数多くの選択肢が存在する。

 慢性的な人手不足に陥っている介護業界において、人材の確保は重要な課題と言えた。

 26歳で介護歴8年。介護福祉士という肩書を持つ夕子であれば尚のこと、どこに行っても重宝される。

 しかし夕子はこれまでも、そんな考えが浮かぶたびに打ち消していた。

 派遣社員である以上、契約終了によりいつかはここを去ることになる。だが、それは今じゃないと思っていた。

 金銭面や待遇面の問題であれば、前もってある程度分かる。しかしこと人間関係においては、入ってみないと分からない。

 スタッフ間の人間関係は良好、そんな評判を聞いていたとしても、それはあくまで、今いるスタッフ間での関係であり、夕子にとって苦手なスタッフがいるかもしれない。

 それにどれだけ否定しようとも、人間関係だけはついてまわる。それがストレスで職場を変えたとしても、また同じストレスを抱える可能性は否定できない。

 それなら今いる環境に踏みとどまり、良好な関係を築けるよう努力したほうがいいと思うからだった。

 ありがたいことに、今の職場でスタッフにストレスは感じていない。

 千花(ちか)という、頼れる先輩もいる。

 何より夕子が今、ストレスを感じているのは利用者だ。

 この業界で生きていく以上、利用者との関係は必ず付いてまわる。

 これまでも様々な利用者と接してきた。暴言を吐かれたり、暴力を振るわれたこともある。

 一晩中ナースコールを押され、意味不明な訴えを聞かされることもあった。

 それでも夕子はこれまで、一度としてこの仕事をやめようと思ったことはなかった。

 利用者に感じるストレスは、この仕事をする上で避けられないものだと理解していたからだ。


 それに何より、職場から一歩出れば、そのストレスから解放される。自由な時間が待っている。

 しかし利用者は違う。これから死ぬまでずっと、施設から出ることも叶わぬまま、苦悩し続けるのだ。

 そんな彼らを考えると、自分はまだ幸せだと思えた。ストレスも苦ではなかった。

 その筈だったのに。

 今、自分は安城カスミに対し、どうしようもないストレスを感じている。

 接触したくない。関わりたくない。

 今すぐ逃げたい、帰りたい。

 そんな思いが日に日に強くなり、家に帰ってからも思い出し、トイレで吐いたりもした。





 グループホーム「ゆめ」のユニットは二つある。

 夜勤に入った時、今夜どちらの担当になるか知らされる。

 安城がいないフロアだった時は、いつも安堵した。

 逆に安城のフロアだった時は、その瞬間から胃がきりきりと痛み、頭痛や吐き気に悩まされた。

 そんな夕子を気遣い、千花がいつも声をかけてきた。


「ごめんね。なるべく安城さんと別のフロアにしてあげたいんだけど、ずっとそうする訳にもいかなくて。あんまり露骨にしたら、他のスタッフから苦情がきてしまうから」


 千花の気遣いに感謝し、夕子は頭を下げた。


「いえ、いつもありがとうございます。分かってますから安心してください。そういう要望をひとつひとつ聞いていたら、シフトなんて組めないですからね」


「そう言ってもらえると助かるよ。でもほんと、どうして安城さん、夕子ちゃんにだけあんな態度なんだろうね。どれだけ考えても分からないんだよ」


「……心配かけてすいません」


「夕子ちゃんの話を聞く限り、安城さんが不快になるようなことはしていない。一度立ち会ってみたけど、おむつ交換にしたって、私よりも丁寧にできてる。それなのにあの反応だもんね」


「……」


「気になったことがあるとすれば、夕子ちゃんの苦手意識くらいかな」


「苦手意識、ですか?」


「うん、そう。私らの仕事って、どこまでいっても信頼関係じゃない? でも、どうしたって苦手な人はいる。だって人間だもん。それを相手に伝わらないよう気を付けながら、業務としてこなしていく。でも、苦手だって意識が強くなっていけば、それが知らないうちに相手にも伝わっていくものなんだよ」


「私、態度に出てましたか?」


「正直言うと、結構ね」


「……」


 千花の言葉に、夕子がうなだれる。


「夕子ちゃん、安城さんの居室にいる間、ずっと顔が強張ってたし。それにすごい汗だったし」


「……千花さんが感じてたってことは、当然安城さんも感じてますよね」


「あはははっ、そうかもね。でもまあ、対応はしっかりできてるし、問題になるようなことは何もしてない。安城さんだって、夕子ちゃんのことで何かしら苦情を言ったりもしていない。

 確かに安城さんの態度は、夕子ちゃんに対してだけおかしい。でもね、夕子ちゃん。自分の中にある苦手意識が、過剰な自意識を生んでるのも事実だと思うよ。私だって気に入られてない利用者さんの介護、いっぱいしてきた。でもね、そんなことでいちいち悩んでたら、こっちだって疲れてしまう。ちゃんと仕事をしてる以上、どうこう言われる筋合いはない、それくらいの強い気持ちで接するのも、必要だと思うよ。自分を守る為にもね」


「理屈は分かるんですけど……」


「それにね、確かに安城さん、夕子ちゃんにだけあたりがきつい。でもね」


 そう言って夕子の肩を抱いた。


「夕子ちゃんが感じてるほどじゃないとも思ったよ。安城さんの雰囲気、視線、態度。確かに気になった。でもね、それ以上に私は、そんな安城さんに怯えてる夕子ちゃんの方が気になった」


 夕子が顔を上げた。


「とにかくだ、負けるんじゃないってこと。私に言えるのはそれだけだよ」


 千花の言葉に、夕子の胸が熱くなる。

 そして彼女の脳裏に、今千花が言った一言が刻まれた。


「負けるな」




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