007 安城カスミ
安城カスミ、82歳。女性。
彼女がここ「ゆめ」に入居してきたのは、1か月前になる。
寝たきりで24時間おむつ対応。食事はベッド上で要介助。軽度の認知症で、コミュニケーションは問題なく取れるとのことだった。
彼女の居室に初めて入る時、男性スタッフから、
「特に問題ない方ですよ。性格も穏やかですし、おむつ交換の時も『ありがとう』って笑顔で言ってくれましたから」
そう言われ、夕子は安堵していた。
こういう施設に入ってくる利用者の中には、どうして自分がここにいるのか理解できていない人も多い。入居して間もない頃は、そんな不安が顕著に現れ、スタッフに対して攻撃的になる人もいる。
そういう意味でも、初対面の印象はかなり重要になる。
小さく息を吐き、夕子が入室する。
この瞬間だけは、何度経験しても緊張するな。そう思いながら。
「失礼します」
「……」
夕子に気付いた安城が、無言で彼女を見つめる。その視線からは不安、恐れが見て取れた。夕子は微笑み、ベッド横へと進んだ。
「安城さん、初めまして。朝霧と申します。ここで夜勤をしているスタッフです。これからどうか、よろしくお願いします」
そう言って頭を下げる。
「……」
安城は夕子の言葉に反応することなく、無言で夕子を見つめている。
「あ、あの……安城さん?」
不安と恐れが入り混じった、安城の視線。しかしそれが少しずつ、違う何かに変わっていくのを夕子は感じた。
ぞっとするような、冷たい視線。
見開かれたその目に、夕子が動揺する。
しかしこれから夕食が始まる。その前におむつ交換を済ませなくてはいけない。夕子は動揺する気持ちを抑え、笑顔で安城に続けた。
「安城さん、もうすぐ夕食をお持ちします。その前におむつ交換、させていただきますね」
そう言って慌てて視線をそらし、リモコンでベッドの高さを調整する。そして「失礼します」そう言って、掛け布団をめくった。
口の中がカラカラに乾いていた。額に変な汗が滲んでくる。男性スタッフが言っていた、「穏やかな人ですよ」との言葉が何度も脳裏をよぎる。
しかし今、目の前にいるこの利用者は、自分の言葉に一切反応することなく、心が凍てつく様な視線を向け続けている。
どういうこと?
私、何か変なこと言った?
そんなことを考えながら、夕子は早く部屋から出たい、そう思った。
「し、失礼します……」
重い沈黙が支配する部屋に、夕子の弱々しい声が響く。夕子は震える手でズボンに手をやり、ゆっくり膝辺りまでずらした。
「……痛い」
「え……」
初めて安城が言葉を発した。夕子が慌てて顔を上げると、相変わらず視線は夕子を凝視していた。
「す、すいません……」
事前の情報では、身体に怪我や痛む箇所はないとのことだった。しかし今、かなり丁寧にずらした筈なのだが、安城は「痛い」と訴えた。
「……安城さん、どこかお怪我とかされてますか?」
しかし安城はそれには答えず、見開いた目で夕子を見据えているだけだった。夕子は混乱した。
部屋の時計を見ると、間もなく夕食が運び込まれてくる時間だった。夕子は小さく息を吐き、笑顔を作った。
「すいません、もう少し丁寧にさせていただきますね。では、失礼します」
そう言っておむつのマジックテープを剥がし、安城の体に手を添える。
「では……すいません、少し壁側を向いて頂けますか」
ゆっくり、慎重に安城を壁側に向かせる。そこで初めて安城の視線が外れ、少しほっとする。
しかしそんな夕子を見透かすように、再び安城が言葉を発した。
「痛い」
「す、すいません……すぐ済ませますので、少しだけ辛抱してくださいね」
慌てておむつ内のパットを取り出し、陰部を拭いて新しいパットを挿入する。そしてマジックテープでおむつを固定すると、最後にもう一度、ゆっくりズボンを上げた。
「……」
これまで、何百回となく繰り返してきたおむつ交換。その筈なのに、汗が噴き出して止まらなかった。
布団を掛け直した夕子はリモコンでベッドを降ろすと、汗を拭い汚染パットを手に取った。
「ありがとうございました。もうすぐ夕食をお持ちしますね」
そう言って頭を下げ、逃げるように部屋から出ていった。
「……」
洗面所で手を洗っていると、先輩の千花が声をかけてきた。
「どう? 安城さん、穏やかないい人だったでしょ?」
千花の言葉に夕子は思った。
先程の男性スタッフも、そして千花も。安城のことを穏やかな人だと言った。
少なくとも彼らにとって、安城は接しやすい「いい利用者」なのだ。
しかし今、自分が接した安城は、間違っても穏やかな人ではなかった。
自分に向けられた、凍てつくような視線。一切の無反応。
そして唯一発した言葉は、「痛い」という苦情だった。
そんなに荒っぽくしただろうか。
これでも自分は、この業界でそれなりに経験を積んでいる。おむつ交換にしても、他のスタッフに教えるぐらいにはうまくできている筈だ。それに今だって、初めて接する利用者ということもあり、かなり丁寧にしたつもりだ。それなのに安城は、吐き捨てるように「痛い」と言った。
どういうことなんだろう。何か見落としている情報でもあったのだろうか。
そう思い、千花に聞いてみた。
「安城さんって、足とかに痛みの訴えってありましたか?」
「足? うーん、特になかったかな。怪我とかもしてない筈だし」
「ですよね……」
「私がおむつ交換した時も、特に問題なかったよ。ずっとニコニコしてて、終わったら『ありがとう』って笑ってくれてたし」
「……」
その言葉に混乱した。自分の時とはまるで違う。少なくとも自分は、安城から笑顔など向けられていない。
「なになに? 夕子ちゃん、何か言われたの?」
「あ、いえ……大丈夫です」
手を洗い終え、ペーパータオルで拭きながら無理矢理笑顔を作る。
そんな夕子に何かを察し、千花が苦笑しながら肩を抱いた。
「大丈夫だって。何か不安に感じることがあって、不機嫌になっただけかもしれないし。夕子ちゃんなら問題ないから。すぐ仲良くなれるよ」
そう言われ、夕子もぎこちない笑顔を向け、うなずくのだった。
しかし。
それから1か月。
安城が夕子に笑顔を向けることは、一度もなかった。




