057 揺れる心
向かった先は、郊外にたたずむ古びたスナックだった。
中に入ると、年の頃60程の男性が穏やかな笑みを向けた。
「マスター、久しぶり。とりあえずいつものやつで。あと、この人はお酒NGで」
カウンターに座り、國澤が慣れた口調でそう話す。マスターは微笑み、メニューを夕子に渡した。
「じゃあ私は……すいません、フレッシュオレンジジュース、お願いします」
注文を済ませて店内を見渡す。カウンターは7席で、後ろにはボックス席が3つあった。
「いい雰囲気のお店だね。よく来るの?」
「ここはお客さんに教えてもらったんだ。なんて言ったらいいのかな、こういう落ち着いた雰囲気、結構好きなんだ。ノスタルジックって言うか、ほっとするって言うか」
「ふふっ。國澤くん、昔の人みたいな言い方」
「ははっ、そうだよな。こういう雰囲気に懐かしさを覚えるのって、もっと年上の人だろうからな。でも、とにかく好きなんだ」
「大丈夫。國澤くんの言いたいこと、私も分かるよ」
「気に入ってもらえたのかな」
「勿論。今この時だけは、お酒が飲めないことを後悔してるもん」
「ははっ、ならよかった」
「ふふっ」
互いにグラスを重ね、微笑みあう。
飲んでいるのはオレンジジュースなのに、自分が少し大人になったような気がした。
「今日はありがとう。誘ってくれて嬉しかったよ」
國澤の言葉に夕子が微笑む。
「日頃のお礼だって言ったでしょ? 國澤くんにはいつも助けられてるし、本当に感謝してるんだから」
「いや、感謝されるようなことは何も」
「そう思ってるのは國澤くんだけだよ。品沢さんも、それに百合子さんだってそう思ってる」
「品沢さんに百合子さん、か……俺にもあの人たちが見えればいいんだけどな」
思わず本音を漏らしてしまった。だがそれは、國澤の中で口にしてはいけないと戒めている言葉だった。
「……ごめん。嫌な言い方になった」
だが夕子は気にする素振りも見せず、静かに首を振った。
「別に謝るようなことじゃないよ。というか國澤くん、そろそろその、いつも私に申し訳ないって思ってる感じ、なくしてほしいんだけど」
「でも俺は」
「話を聞いた時も私、言ったよね。この話はこれで終わりにしようって。どっちが悪い訳でもない。私たちは二人とも、あの頃教室に巣食っていた悪意に振り回されただけなんだから」
「いや、でも……」
「ああもう、私がいいって言ってるんだからそれでいいじゃない。それでも改めないって言うんなら、私だって國澤くんにずっと謝るよ?」
「ああいや、それは困る」
「でしょ? だからもう、この話はおしまいにしようよ」
「……これ以上幻滅されたら俺、立ち直れないから」
「え……」
つい口にした本音に、夕子が固まる。國澤がしまったという顔をした。
だが、勢いで言ってしまった言葉だとしても、それはまぎれもなく自分が抱えている感情だ。そう思い、酒を飲み干し息を吐いた。
「……朝霧」
「は、はい」
「百合子さんの時、俺は朝霧のことを全然理解してなかったって思った。朝霧は秘密のせいで、これまでずっと心を閉ざしてきた。誰とも深く関わらずに生きてきた。
人間ってのは、他人と触れ合うことで強くなっていくものだ。俺はそう思ってる。そしてその関係が困難であればあるほど、その人間の心は豊かになり、強くなっていく。そういう意味では朝霧、俺は朝霧のことを今にも壊れそうな、儚い存在のように思っていたんだ。でも……
今も、そしてあの時、百合子さんの妹さんから言われた時も。朝霧は笑顔だった」
百合子の妹敦子が言った、「幽霊が見える夕子さんが羨ましい」との言葉。
夕子はその能力のおかげで、誰にも心を開かず生きてきた。こんな能力、欲しくはなかった。そう何度も思い、運命を呪った。
それなのに彼女は笑顔で言った。「私もそう思います」と。
「あの時俺は、これまで朝霧に対して感じていたものが間違いだったと気づかされた。朝霧は弱くない。彼らが見えることで、そして彼らと出会ったことで、俺たちよりもずっと強い存在になってたんだと」
「大袈裟だよ。私はそんなに強くないよ」
「いいや、朝霧は強い」
「兼本さんの時のこと、覚えてるでしょ? それにほら、初めて國澤くんに手伝ってもらった、山中さんの奥さんと会った時だって。私、思い出したら情けなくなるんだから」
「でもそのひとつひとつが、朝霧という人間を豊かにしてるんだ」
「……」
「勿論、トラブルなんてみんなごめんだ。ましてやその兼本みたいに、朝霧の尊厳を否定するようなのは論外だ。正直俺は、今でも怒ってる」
「……ありがとう」
「でも……それでも俺は言いたい。本当に朝霧はすごいって。高校で朝霧と出会った時も、俺は他のやつらとは違う、何か特別な感情を持ってしまった。そして再会した今、あの時よりも朝霧はずっと強く、魅力的な女性になっていた。そう心から思ってる」
「あの、その……恥ずかしいよ國澤くん。少し声を抑えて。マスターさんに聞かれちゃう」
「大丈夫ですよ」
カウンターの中、無言で佇んでいるマスターがそう言って、國澤に酒の注文を聞いてきた。
「ここは日常に疲れた人が、ほんの少し息抜きをする為に存在してる場所です。みなさん、様々な悩みを背負ってやってきます。そんなみなさんにお飲み物を提供し、心を癒してもらう。それがこの店なんです。みなさんそれを理解しているからこそ、訪れてくれるんです」
そう言って國澤にグラスを差し出した。
そして夕子にも。
「これは私からのサービスです。色々あると思いますが、お客さんも少しだけ、気持ちを軽くしてみませんか」
微笑むマスターに頬を染め、夕子が静かにうなずいた。
そんな夕子を見つめ、國澤が何かを決意したような視線を向けた。
「朝霧。過去のことはなかったことにしよう、そう言ってくれたこと、本当に嬉しい。でも俺はどうしても、あの時の朝霧の顔が忘れられないんだ。しかも俺は、そんな朝霧を見捨てて逃げた最低な男なんだ。
でもこうして、朝霧と日常を重ねていくことで……俺は朝霧のことをもっと知りたい、力になりたいって思ったんだ」
「……」
口の中がからからに乾いて、手には汗がにじんでいた。
今すぐ逃げ出したい。そんな思いに囚われた。
しかし次の瞬間、夕子は気づいた。
この感覚、覚えがある。
あの日校舎裏で告白された時と、同じ感覚なんだと。
そう思い、混乱した。




