047 悪夢
その悪夢は、突然訪れた。
2月13日。
夜勤明けのこの日、夕子は家で手作りチョコを作っていた。
明日のバレンタイン、國澤と会う約束をしていた。夕子からの誘いだった。
生まれて初めて、異性にチョコレートを渡す。そう思うと、恥ずかしくて顔から火が出そうになった。
「ううん、これはそういうのじゃないから。日頃の感謝を形にして渡すだけ。たまたま明日がバレンタインだから、チョコになっただけよ」
そう自分に言い訳しながら、チョコ作りに没頭した。
完成した頃には、もう陽が落ちていた。
テーブルの上、ラッピングされたチョコを見つめ、夕子は安堵の笑みを浮かべた。
思っていた以上に大変だった。なにしろこれまで、自作のチョコなど作ったことがなかったからだ。
でも、大変なのは明日の方だ。これを明日、國澤に直接渡さなくてはいけないのだ。
どんな風に言おう。
「こ、これはその、そういう意味じゃないから。國澤くんにはお世話になってるから、その感謝のつもりなの。だから勘違いしないでよね」
どこのツンデレお嬢様のセリフだろう。そんなことを思い、赤面した。
「あ……こんなことしてる場合じゃない」
時計を見て、慌てて立ち上がる。明日は朝10時に待ち合わせをしている。寝坊して遅刻なんかしたら最悪だ。そう思い、片付けを済ませ風呂場に向かった。
脱衣所で服を脱ぐと、少し肌寒く感じた。そう言えば寒波の影響で、最近やけに寒い。そう思い足早に風呂場に駆け込み、シャワーを浴びた。
その時だった。
「……」
全身に悪寒が走った。
確かに風呂場は少し寒かった。しかし、この震えはそれじゃない。そう思った。
嫌な感覚に支配される。
そしてすぐ、その感覚が間違っていないことを理解した。
「はははっ。やっぱお前、いい体してるじゃねえか」
背後から聞こえた男の声に、夕子が思わず「ひっ……」そう呻き声を上げた。
「お前、着痩せするタイプなんだな。そんないい乳、誰にも触らせてないなんて勿体ない」
咄嗟に胸を隠し、その場にうずくまる。
シャワーが頭に降り注ぎ、辺りに湯気が立ち込める。
そんな夕子を見下ろし、値踏みするような視線を送る声の主に、夕子は目を見開いた。
「こんなの見せられて、辛抱できる訳ないじゃねえか。なあ夕子、ヤらせてくれよ」
シャワーが男の体をすり抜ける。当然だった。
その男は幽霊。あの兼本だった。
「か……兼本さん……」
「なんだよお前、一度しか会ってないのに、俺のことちゃんと覚えてたのかよ。やっぱお前も、俺のことが気になっていたんだな」
心に巣食う欲望を隠そうともせず、唇を舐めて夕子の裸体に視線を注ぐ。
吐き気がするような下卑た笑みを浮かべ、夕子に手を向ける。
「別にいいだろ? お前だって夜な夜な体、もてあましているんだろ? だったら一緒に楽しもうぜ。お前が一言、『どうぞ私をお納めください』そう言えばそれが叶うんだ」
「ひっ……」
見開いた瞳に涙があふれる。向けられた手が、体をすり抜けていく。
「なあ夕子、頼むよ。こんな据え膳、耐えられないって」
唇を大きく歪め、スボンを下ろした兼本が目の前に股間を押し当ててくる。
その瞬間、夕子の中で何かが壊れた。
「いやああああああっ!」
四つん這いのまま風呂場を離れ、バスタオルを身に纏う。
床に水滴が散らばる。
夕子は震える足に力を込め、兼本から遠ざかろうとした。
そんな夕子に満足気な笑みを浮かべ、タオルで隠れた臀部を見つめる。
「いいケツしてるじゃねえか。ははっ、そんな風に目の前で振られたら、俺のこいつももう我慢できないぜ」
そう言って一物を握りしめる。夕子は声を上げることもできず、ただただ目を見開き、涙を流して傍にある服に手をやった。
「おいおい、これからヤるってのに、なんでまた着るんだよ。ま、そういうのも嫌いじゃねえけどな」
手を小刻みに動かしながら、血走った目で夕子を見据える。
夕子は上着とズボンを履き終えるとジャケットをはおり、玄関に向かって走った。
「どこに逃げるつもりだ? まあ、追いかけたら済む話なんだけどな。そうやって逃げる女を犯すのも嫌いじゃない、と言うか大好物だしな」
兼本が笑いながら夕子の後を追う。夕子は玄関を開けると、一目散に駅に向かった。
頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。
生まれて初めて、異性に裸を見られてしまった。そしてその男は、自分の体を舐めまわすように見つめ、これから犯すと言い放った。
部屋の鍵なんて、幽霊には関係ない。どんな場所であろうと、自由に行き来できる。
確かに彼らは、自分に触れることができない。彼が言うような行為にしても、自分の同意がない限り、絶対になされることはない。
しかし自分に向けられた欲望、それだけはどうすることもできなかった。
このままだと成仏しない限り、こうして私を欲望の捌け口として追い続けるのだろう。
かつての品沢の言葉が脳裏に蘇る。
『わしらのことを信用してくれるのは嬉しいよ。でもね、お嬢ちゃん。少しは疑うことも覚えるべきだと思うよ』
あの時。自宅に幽霊たちを招いた時。
もし彼らに悪意があったとしても、直接的な被害を受けることはない。そう思い、「大丈夫ですよ。品沢さんって本当、心配性ですね」と笑った自分が浅はかだったと思い知った。
まさかこんな方法で、兼本が自分に接触してくるとは思ってもいなかった。
そして彼は幽霊である以上、望みが叶うまで執拗に私を求めてくるのだろう。なぜならそれが、彼の未練なのだから。
絶望と後悔の念に押し潰されそうになりながら、切符を買った夕子は電車に飛び乗った。
「おいおい、どこまで逃げるつもりだよ」
相変わらず品のない笑みを浮かべながら、夕子に顔を近づける兼本。その息は勿論かかってこない。しかし夕子は耐えきれず、膝に顔をうずめて目をつむった。
電車が走る。
次の駅のアナウンスが聞こえた。
どこまで逃げればいいのだろう。そんなことを考えたその時だった。
パンッ!
何かが弾けるような音がしたかと思うと、兼本の姿が見る見る後ろへと下がっていった。
「な、なんだよこれは! おい夕子、戻れ、戻ってこいって!」
しかしその叫びはすぐに消え、夕子の周りに静寂が戻った。
品沢たちが言っていた、幽霊が行動できる範囲。結界。
それを過ぎることができたんだ。そう思い、ようやく夕子が安堵の息を吐いた。
唯一持ってきたポーチには、財布とスマホ、そして國澤に渡すチョコが入っている。
ついさっきまで、明日のことを考えて楽しかったのに。
なんでこんなことになったんだろう。
そう思い、肩を震わせた。
そして次の駅で降りると、おぼつかない足取りでネットカフェへと向かった。




