046 葛藤
深夜3時。
夕子が休憩室の扉を開けた。
「あ、品沢さん、こんばんは」
いつも通りの笑みで、夕子が頭を下げる。
そんな夕子を見つめ、品沢が複雑そうな表情を浮かべた。
「あ、ああ。こんばんは、お嬢ちゃん」
「今日は品沢さんお一人なんですね。大晦日ですし、石川さんも来られるかと思ってました。あ、もう大晦日じゃないですね。年、明けてました」
そう言って姿勢を正し、深々と頭を下げる。
「あけましておめでとうございます」
「あ、ああ、そうだね。これは失礼」
品沢も立ち上がり、頭を下げる。
「今年もどうぞ、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。と言うか、それはわしのセリフだな」
品沢がそう言うと微笑み、コーヒーの準備を始めた。
いつもと変わらない様子の夕子。そんな彼女を見つめ、品沢が眉間の皺を深く刻んだ。
「大丈夫かい?」
「え? ああ、青木さんのことですよね、大丈夫です。ご家族への連絡もできましたし、さっき施設長も到着して、今は青木さんのケアをされてます」
そう言って品沢にコーヒーを差し出すと、「どうぞお納めください」と手を合わせ、向かいに座った。
青木の心肺停止を確認し、施設長に連絡したのが23時。施設長は日付が変わる頃に到着した。
遅れてやってきた医師による死亡確認を受け、夕子は施設長と一緒にいわゆる「エンゼルケア」を行った。
遺体に装着された医療機器を取り外し、陰部等を清拭する。
口腔内、鼻腔内のケアを済ませ、二人がかりで着替えをする。
その後死に化粧をするのだが、「後は自分がやっておくから、朝霧さんは業務に戻ってください」そう言われ、任せたのだった。
施設長によると、家族は早朝やってくるとのことだった。確かに、急いで来たところで何も変わらない。それに彼らはこれから葬儀場の手配も含め、慌ただしい三が日を過ごすことになる。休めるうちに休めばいい、そう思った。
「いや、その青木という人のことも勿論なんだが……大変な年越しになったね」
「そうですね。私も随分この業界にいますけど、こんな年越しは初めてです」
そう言って微笑む。その笑顔が痛々しく思え、品沢は直視できなかった。
「……お嬢ちゃんの言う通り、実は石川も来てたんだ。お嬢ちゃんに新年の挨拶がしたい、そう言ってね。だがこんなことになってしまったからね、今日は遠慮しますと言って帰っていったんだ」
「そうなんですね。すいません、気を使わせてしまって」
「いやいや、お嬢ちゃんが謝ることじゃないさ。むしろ、こんな時間まで待ってるわしの方が非常識なんだ」
「そう言えばそうでした。ごめんなさい品沢さん、長い時間待たせてしまいましたよね」
「お嬢ちゃんが何をしていたのかは分かってる。そんなこと、気にしなくていいんだよ」
「いえ、本当なら1時からの休憩なんです。なのにこんな時間になってしまって」
「いや本当、謝らないでくれないか。そんなに謝られたら、わしのほうが恐縮してしまうよ」
そう言って肩をすくめた品沢に苦笑する。
「じゃあ品沢さん。とりあえず新年最初の煙草、付き合ってもらえますか」
夕子の言葉に小さくうなずき、「ああ、いただくよ」そう言って品沢が立ち上がった。
「さすがに寒いですね」
白い息を吐きながら夕子が微笑む。その息が煙なのかどちらなのか、品沢も分からず苦笑した。
「大丈夫かい?」
「ええ、こうして熱々のコーヒーも飲んでますし、ジャケットを着こんでるので何とか」
「わしらと違って、お嬢ちゃんは生身の人間なんだ。無理はしないでくれよ」
品沢の気遣いに、夕子が嬉しそうに微笑む。
「お嬢ちゃんは利用者の看取り、これまでも経験があるのかい?」
聞くべきかどうか、夕子に会うまでずっと悩んでいた。しかしいつもと変わらぬ素振りを見せる夕子を見て、それが虚勢だと感じた品沢は聞く選択をした。
「そうですね。青木さんで三人目になります」
「そうなんだね」
「でも、今回のような場合はそこまでダメージがないんです。覚悟ができてるから、こう言えば分かってもらえるでしょうか。特にこういう職場ですから、ある意味これが日常な訳ですし」
「もう一度聞かせてほしいんだが、大丈夫かい?」
「はい。色々気を使ってくれてるみたいですいません。多分、私が無理してるように見えるんですよね」
「……」
「正直それはあります。どんな形であれ、人の死に接するのは辛いですから」
「だよね」
「でも……私はここに、仕事をする為に来ています。この仕事をしていて助かることのひとつに、利用者さんが一人じゃないってことがあるんです」
「……」
「もし私の担当が青木さんだけだったら、色々と考えるところもあったと思います。でも私のフロアーには、他に8人の利用者さんがいます。品沢さんも見ていたと思いますが、あの後他の方が便失禁されてました。おむつは勿論、シーツまで汚染されてました。
不穏になってる利用者さんをなだめながら体を拭いて、シーツを交換して着替えをする。寝かしつけるまでに20分かかりました」
「そうだね。見ていたよ」
「おかげで私はその時間、青木さんのことを考えることはありませんでした。つい今しがた亡くなった人がいる。でも今、目の前で便失禁で不穏になってる利用者さんがいる。私が何をするべきか、考えるまでもないですよね。
それだけじゃない、他にも利用者さんはいます。みなさんの排泄処理をしていたら、正直受けていたダメージは消えてました」
「そういうものなのか。いやはや本当、大変な仕事だね」
「感情を乱す暇すらないことが、ある意味この仕事の真理なのかもしれません」
そう言って笑う夕子を見て、今言っていることは嘘じゃない、そう感じた。
「ただ……後で一人になってから、ふと考えることはあります。私って、人としておかしいんじゃないかって」
少し唇を歪め、自虐的に笑う。
その笑みもまた嘘じゃない、そう思った。
「そういうことを考えていたら私、変になりそうで。だからある時から、色々考えることをやめたんです。じゃないとこの仕事ができなくなる、そう思って」
「……」
「もっと言えば、生きていけなくなるって」
その言葉は、品沢の心に重く響いた。
「だから今は、こうして品沢さんと煙草を楽しむ。その時間を満喫できればって思ってます。そうして自分の感情にメリハリをつけないと、色々悩んでしまいそうですから」
「確かに……そうなのかもしれないね」
「後は今日、仕事が終わってから両親に会うことを考えてます。どんな話をしようかとか、お母さんのお節料理、楽しみだな、とか」
「それに明日は、國澤くんとの初詣もある訳だからね」
その言葉に顔を上げると、品沢が意地悪そうな笑みを浮かべていた。
夕子の真意は理解した。ならばこれ以上この話題を続けるより、いつも通りの休憩時間を過ごしてもらうべきだ、そう思った故の振りだった。
「品沢さんまで奈緒ちゃんみたいなことを……ほんと、彼とはそういう関係じゃありませんから」
「はははっ、悪い悪い。でもお嬢ちゃんのそんな顔が見れるんだ、ついからかいたくなるんだよ」
「全く……ふふっ」
「はははっ」
「品沢さん。こういう年越しになってしまいましたけど、でも私、品沢さんには本当、感謝してるんです。これまで本当にありがとうございました。それから……できればこれからも、どうか仲良くしてください」
そう言って二本目の煙草を差し出した。
品沢はそれを受け取り、小さくうなずいた。
「いや、こちらこそ……お嬢ちゃんに出会えたことで、わしらはこの生活に光を見出すことができたんだ。だからありがとう、お嬢ちゃん。わしの方こそ、これからもよろしく頼むよ」
そう言って煙草に火をつけ、微笑んだ。
彼女の中では、様々な葛藤が生まれては消えている。
人の死に深く関わり、最後を看取ることもある職場で勤め。
そしてこうして、死してなおこの世界にとどまる我々と関わっている。
彼女は何を思うのだろう。
生きるとは何なのか。死とはどういうことなのか。
人生とは、幸せとは何なのだろうか。
ある意味、決して到達できないその問いを背負いながら、それでも彼女は日常を生きている。
自分には何もできない。力もない。
ただ、少しでもいい。こうして彼女と語り合い、彼女が進むべき道を見つける一助になりたい。
そう思い、再び白い息を吐いた。
「お嬢ちゃん。今年もどうか、幸せに過ごすんだよ」




