039 誠実不誠実の重ね合わせ
山中の元妻、ひとみ。
彼女はため息が出るほど美しい女性だった。
いわゆるタワマンの中層階に住む彼女は、現在杉山勝次というIT企業の役員と生活していた。
ひとみは夕子と國澤を見て微笑み、リビングに通してくれた。
ひとつひとつの所作に優雅さと気品が漂う。私たちとは住む世界が違う人だ、そう思い、夕子は圧倒された。
そんな夕子にひとみは「そんなに緊張されなくてもいいですよ」そう言って微笑んだ。
全てにおいて余裕のある人種。そんな人物を前にして、夕子は冷や汗が止まらなかった。
國澤が改めて挨拶し、名刺を渡す。それを見つめ、ひとみが囁くように言った。
「それでその……前の夫からの依頼ということですが、どういうことなのでしょうか。ご存知の通り、私は再婚して新しい家庭を築いています。今の生活に支障がないよう、できれば穏便に済ませたいのですが」
どこまでも優雅な口調でひとみが話す。
「それはこちらの、朝霧さんからお聞きください」
國澤の言葉にひとみがうなずき、夕子に視線を移す。夕子は意を決し、今回の経緯を話した。
「……以上が、私が山中さんから受けた依頼です」
そう口にした瞬間、夕子は全身から汗が噴き出すような感覚を覚えた。倦怠感もすさまじい。
山中の思いを伝えたという達成感。初対面の人間に対し、幽霊などという非常識極まりない存在を話したという事実。気力が全て消え失せたような気がした。
しかしあと少し、あと少しだけ頑張るんだ。彼女からのメッセージを受け取るまでが今回の仕事。それまで踏ん張るんだと言い聞かせた。
ひとみに視線を送る。ひとみは目を閉じて何度もうなずき、やがてそっと目を開けた。
長い睫毛、大きな瞳に小さな唇。本当、綺麗な人だな。そう思い感嘆の息を吐く。
「つまり朝霧さんは、山中がまだこの世界にとどまっていると言われるのですね。そして私に感謝を伝えたいという望みを叶える為、山中の代わりに来られたと」
「……はい」
「突然山中からの依頼と言われて、正直戸惑いました。ひょっとしたら、山中の親戚の方たちが私の今の生活を壊す為、何かしら不穏な手を使おうとしているのではないかと勘繰ったりもしました。それがまさか、あの人がこの世界で今、彷徨っているだなんて……思いもしませんでした」
そう言って、夕子と國澤のカップに新しい紅茶を注ぐ。
「そうなんですか……あの人、そんなことになってるんですね……」
「あ、あの……今の話、信じてもらえるんですか」
「信じるも何も、突然こんなところにまで来られて、私にメッセージを伝えられたんです。それってあなたにとって、何の得にもならないことだと思いますよ。
正直言って、私は幽霊なんて存在、あまり信じていません。でも今の話を伺って、ああ、あの人ならそんな選択、するかもしれないなって思えたんです」
そう言って小さく笑った。
「ですので朝霧さんのお話、信じようと思います。こんなところまでわざわざ来ていただき、本当にありがとうございました」
どこまでも穏やかに、ひとみがそう話す。しかしその時、夕子は違和感を覚えた。
ずっと品のある、素敵な笑顔だと思っていた。しかし彼女の瞳の奥に、どうしようもない闇が潜んでいるように感じたのだ。
「あの、その……杉山さんは今、再婚されているんですよね」
「ええ。再婚して1年になります」
「山中さんのこと、今はどう思われているんでしょうか」
言った後ですぐ後悔した。でも止まらなかった。
そして。
その問いを投げかけられて。
ひとみの口元が微かに歪んだように感じた。
「ふふっ……まさかあなた、女は男が死んだ後も、ずっと想い続けて生きていかなくてはならない、そんな風に考えられているんですか」
「あ、いえ……すいません。そんなつもりはありませんし、非難する気もありません。生きている人間にとっては、今こそが大切な訳ですし、誰にだって幸せになる権利がありますから」
ひとみがもう一度微笑む。その笑みに、夕子は見下げられているような感覚を覚えた。
「私にとって、男とは自分を飾る為のアクセサリーなんです」
「……」
言ってる意味が分からない、そう思った。
そして同時に、言葉が冷徹な刃となって、自分の胸に突き刺さっていくような感覚を覚えた。
「確かに今、私はいわゆるエリートと結婚し、このように恵まれた生活をしています。ですが誤解のないようにしてほしいのですが、私は何も、男の価値がお金だけだなんて思ってはいません。
男の価値は様々です。容姿であったり経済力であったり、人脈であったり誠実さであったり。そのどれもが、私という人間を光り輝かせる為のアクセサリーなんです。
山中に対しては、そうですね……ひたすら純粋に、私を愛し続けてくれていたことでしょうか。ある意味それも、女の幸せだと思いませんか」
「……思います」
「でも、まさかそれを死んでからも貫いているだなんて……ふふっ、本当に可愛い人ですね」
「そんな言い方」
「でもそうじゃないですか? そしてこう思います。ああ、やっぱり私の目に狂いはなかった。あの人と結婚したことは、間違いじゃなかったんだと」
にこやかに微笑む。その表情は、元の穏やかなものに戻っていた。
「そんな彼だから私は愛した。それは本当です。彼も幸せだったんじゃないですか? 私はそう思いますよ」
納得できなかった。でも、何も言い返せなかった。
彼女の言ってることは間違っていない。夫が死んでも添い遂げなくてはならない、そんな常識はどこにもない。現に今、彼女は幸せに生きている。山中もそれを望んでいる筈だ。
でも。どうしても納得できなかった。したくなかった。
そんな夕子の様子に、國澤はこの辺りで打ち切った方がいい、そう思いひとみに言った。
「それでですね、杉山さん。これはこちらからのお願いになるのですが、できればあなたからのメッセージを、山中さんに届けたいのです」
「構いませんよ。言葉でいいんですか?」
「できればそれを、動画で残させていただければと思ってます」
そう言われ、ひとみが少し考え込んだ。
そしてテーブルに置かれた名刺を見つめ、小さくうなずいた。
「分かりました。弁護士の先生からの依頼なんです。まさかその動画を使って、私の生活を脅かすなんて心配はしなくていいでしょう。先生のこと、信用しますよ」
「ありがとうございます。そのデータは山中さんにお見せした後で、私が責任を持って処分いたします」
そう言って國澤が口元を引き締めた。
「では……カメラを向けますので、山中さんに語りかけるイメージでお願いできますか」
ひとみが微笑み、姿勢を正す。
その瞬間、夕子は驚いた。
ひとみの雰囲気が変わったからだ。
こちらの依頼に対し、真摯に請け負う気持ちがあふれている。
彼女は今この瞬間、杉山ひとみではなく、かつて愛した山中敏明の妻、山中ひとみに戻っていた。
その姿に混乱した。
どちらが本当の彼女なんだろう。
こちらの依頼に対し、真摯に応えようとしている彼女。でも彼女は山中さんのことを、いや、世の男のことを自分を飾る為のアクセサリーだと言い切っていた。
誠実さと不誠実さ。その相反するものを両立させた人間を前に、困惑した。
録画のスイッチが鳴ると、ひとみは小さく微笑み、口を開いた。
「トシ、久しぶり。ちょっと変な感じだけど、元気してた?」




