022 名刺
「……」
煙草をもみ消し、品沢がため息を吐いた。
「……すまなかったね。どうやらわしは、とんでもなくデリケートな話を聞いてしまったようだ」
そう言って頭を下げる。
そんな品沢に微笑み、夕子はもう一本煙草を勧めた。
「大丈夫ですよ。昔の話ですし、もう何とも思ってませんから」
煙草を手にした品沢が、複雑な表情を浮かべる。
「それで、その後どうなったんだい?」
「國澤くんですか?」
「彼もだが、お嬢ちゃんも」
「特に何もなかったですよ。確かに國澤くんは、それからしばらく学校を休んでました。でも復帰してからは、何事もなかったようにしてました」
「元通りの生活に戻った、そういうことかな」
「はい。考えてみたら國澤くん、元々あまりクラスメイトとも絡んでませんでしたから。あの一件以降、いつも一人で勉強してました」
「囃し立てた男たちは」
「女子が先生に話したことで、結構きつめに叱られてました。後で私のところにも、謝罪みたいなことをしに来ましたね」
「……」
「そうは言っても、叱られて仕方なくって感じでしたけどね。それにあの人たち、あれ以来私のことを怖がってたみたいで、あれからは何もしてきませんでした」
「お嬢ちゃんは」
「私はまあ……人への警戒心が強くなった、って感じです。女子からは慰められたり、必要以上に優しくしてもらいましたけどね」
淡々と語り、夕子も煙草をくわえる。
「お嬢ちゃんの会話の中に、ひとつだけよく分からない単語が出てきたんだが、聞いてもいいかな」
「はい、何でしょう」
「罰ゲームとは、何のことなんだい?」
品沢の言葉に、夕子は納得の表情でうなずき、小さく笑った。
「そうですよね。少なくとも、品沢さんの時代にはなかったでしょうからね。罰ゲームというのは、特に男子の間でよくやってるみたいなんですけど、何かしらの勝負をして、負けた人間がしなければいけないことなんです。よくあるのが、今回みたいに女子に告白するってやつですね。それも、別に好きでもない女子とか、誰にも相手にされてない女子にとか。それをみんなで隠れて見て、あとで笑いあう、みたいな遊びです」
「そんな品のないゲームが横行してるのか。いやはや、最近の学生は大変だね」
「本当ですね、ふふっ」
その笑顔に、この件は夕子の中で本当に過去のことになっている、そう思い品沢は安堵した。
「で、だ。そんな彼に今日、再会してしまったと」
品沢にそう言われ、夕子が力なくうなずいた。
「はい……自分の中では消化したつもりだったんですけど、思ってた以上に動揺してしまって」
「それで? 彼は何か言ってきたのかい?」
「……最近どうしてるんだとか、どの辺りに住んでるんだとか。元気にやってるのかとか」
「当たり障りのない、社交辞令ってやつだね。彼も困惑したんだろう、いきなりお嬢ちゃんに会ってしまって」
「でも、それならわざわざ声をかけなくてもよかったと思いません? 少なくとも私は気づいてなかった訳ですし、そのままスルーすればよかったのに」
「確かにそうだね。自ら地雷を踏みにきたようにも思えるね」
「彼に対して怒ってるとか、そういうのはありません。あれからも普通に学生生活を送れましたし、笑われるとか、避けられるとかもなかったです。まあ、男子からは距離を置かれましたけど」
その笑顔は自虐的だな。そう品沢が思った。
「だからその……國澤くんの意図がつかめなくて。どうしてわざわざ、私に声をかけてきたのか。それにこんな物を」
そう言って、ポーチから一枚の名刺を出した。
「彼の名刺かい?」
「はい……過去のこと、言い訳する気はない。どんな理由であれ、俺は君を傷つけた。それはまぎれもない事実だ。だから許してほしいとか、そういう気持ちもない。
ただ、もし朝霧に何か困ったことが起きた時、今の俺になら少しは手助けできるかもしれない。そうなった時、ここに連絡してほしい。そう言って」
その名刺には、「國澤法律事務所 弁護士 國澤博幸」と書かれてあった。
「弁護士なのか、彼は。しかも独立して、自分の事務所を構えてるようだ」
「彼……國澤くん、あの頃から頭がよかったですから。弁護士と聞いて、なんだか納得してしまいました。彼らしいなって」
「クラスメイトを晒し物にした男に、弁護士が務まるとも思えないんだけどね」
「ふふっ、ありがとうございます。でもさっきも言った通り、あれは罰ゲームだったんです。確かにその、結果的に私は傷ついてしまった訳ですけど、でもこれって、学生時代にはよくあるイベントなんです。青春時代の、ちょっとしたおふざけみたいなものです。言ってみたら、私がもっと軽く受け止めて、『そうだったんだー、騙されちゃった、恥ずかしいなー』って笑えばよかったんです」
「……」
不自然におどける夕子に、品沢の眉間の皺が少し深くなった。
「でもこの名刺、本当にどうしたらいいのか分からなくて。正直言えば、色々思い出してしまうので持っておきたくないんです。かと言って、捨ててしまうのも悪いですし……品沢さん、どう思われますか」
夕子の言葉に、品沢は思った。
この件でこれ以上、何も言わない方がいい。少なくとも、お嬢ちゃんに聞かれるまでは、そうするべきだ。
わしらは死者で、今を生きていない存在だ。
止まった時間の中で彷徨う、無力な幽霊。生者の力になれることなんて、何もない。
しかもそれが、学生時代のトラウマに関すること。誰にも心を開かなかったお嬢ちゃんが、唯一信じてみようと思い、そして裏切られた過去。
自分のような朽ち果てた存在が、気安く立ち入ってはいけない問題だ。
だからせめて、ここは年配者として。見守る立場として。
可能性を残しておく選択だけしておこう、そう思った。
「……弁護士の知り合いなんて、持とうと思っても簡単に持てないだろう。使わなければそれでよし、でももし必要になる時が来たとしたら、お嬢ちゃんだって知らない弁護士を訪ねるより、彼に相談した方がいいんじゃないかな。
そういう意味で何かの保険、ぐらいの気持ちで持ってるのもいいと思うよ」
そう言って笑顔を向けた。
その言葉に夕子は納得の表情を浮かべ、うなずいた。
「……そうですね。何もなければそれでよし、ですもんね。そういう機会がないように気を付けます。
あ、そろそろ時間だ。品沢さん、今日もお付き合いいただきありがとうございました。品沢さんに打ち明けて、少し気持ちが軽くなった気がします」
「いやいやこちらこそ、今日も煙草とコーヒー、ごちそうさま」
「じゃあ私、そろそろ戻りますね。次の夜勤もまた、よろしくお願いします」
そう言って、夕子は笑顔で戻っていった。
休憩に入った時より、随分元気そうに見えた。
そう感じ、品沢は思った。
わしのような存在でも、少しは役に立てたのだろうか。
もしそうなら、こんな姿でも存在している意味があるのかもしれない。
そう思い、最後の一息を肺に納め、微笑んだ。




