010 結界
1か月が過ぎた。
安城カスミは変わらず、夕子の全てを否定していた。
しばらくはあの時のことを不意に思い出し、息が止まりそうになった。血が逆流し、体が震えた。
しかし日常を過ごし、仕事をこなしていく中で。
少しずつダメージが小さくなっていくのを感じ、時の流れ、日常のありがたさを痛感した。
安城の不可解な態度に、いつまでも振り回される訳にはいかない。夕子はそう自らを奮い立たせ、業務に向かっていった。
そんな夕子を、品沢は見守り続けた。
そしてある日の深夜。
品沢は一人の男を連れて休憩室、喫茶「ゆめ」を訪れた。
男の名は、高坂隆文。
年の頃30程の、幽霊だった。
「いつもすまないね、お嬢ちゃん」
喫煙所で煙草を手に、品沢が穏やかに微笑む。
「いつも言ってますけど、気にしないでください。それに私も、品沢さんとこうして一緒に煙草を吸うの、楽しいですから」
一緒に吸うのが楽しい。
予想してなかった言葉に、品沢が一瞬驚きの表情を見せた。
そして静かにうなずくと、
「……ありがとう、お嬢ちゃん」
そう言って白い息を吐いた。
そんな二人を見つめながら、スーツ姿の彼、高坂も満足そうにコーヒーに口をつけた。
「高坂さんも煙草、いかがですか?」
夕子の問いかけに照れ臭そうに笑い、「では……お願いできますか」そう言って煙草を受け取り、火をつけた。
「それで、なんだけどね……お嬢ちゃん、少し聞いてほしい話があるんだ」
「私にですか?」
「ああ。聞いてほしいと言うか、ぶっちゃけた話、頼みごとなんだ。こいつのね」
そう言って、高坂に視線を移した。
「私にできることなら、喜んでお聞きしますよ。品沢さんたちには本当、いつもお世話になってますから」
「いやいや、それは持ち上げすぎだ。どちらかと言えば、わしらの方が世話になってる」
そういって煙草を見つめ、笑った。
「……品沢さんたちと出会ってなければ、私はもうここを辞めていたかもしれませんから」
その言葉に苦笑し、静かに目を閉じる。
「今もここで働いているのは、お嬢ちゃんがそう決意したからだ。わしらは何もしてないよ」
「いえ……ここを辞めてしまったら、品沢さんたちとも会えなくなるかもしれない。そう思うからこそ、私は頑張れているんだと思います」
その言葉に、品沢が声を上げて笑った。
「そう言ってもらえて嬉しいよ。だがね、お嬢ちゃん。仮にお嬢ちゃんがここを辞めたとしても、お嬢ちゃんが望んでくれる限り、わしらはこの縁を大切に守っていきたいと思ってるよ」
その言葉に照れ臭そうに微笑み、夕子が頭を下げた。
「まあなんだ、場所に制限はかかるんだけどね」
「場所、ですか?」
「わしらの世界にはね、とにかく色々と制限があるんだよ。そのひとつに、行動範囲が限られているというやつがあるんだ」
「……」
「わしらは幽霊だ。と言うことは当然、死を経験している。問題は、どこで死んだかということなんだ」
「生を終えた場所、ということでしょうか」
「ああ。どうしてかと言えば、そこがわしらが存在していく場所になるからだ」
「どういうことでしょう」
「簡単に言えばこういうことだ。わしらはみんな、この街で死んだ。これからずっと、この街でしか存在できない。この街から出られないんだ」
「結界……みたいなものなんでしょうか」
「そう解釈してくれていいと思う。今この街と言ったが、それはひとつの例えなんだがね。本当はもう少し広い」
「この街から出たら……どうなるんですか」
「はははっ、消し飛ぶとでも思ったかい? 大丈夫、そんなことにはならないよ。それ以前に、絶対出ることができないからね」
「そうなん……ですか」
「正直わしも、理屈は分かってない。その街の神社を起点にして、結界が張ってある。そう言ってるやつもいる。だが、本当のところは分からない」
「……」
強い未練を持ち、この世界にとどまることを選択した彼ら。品沢たちに会うまで、夕子は彼らの日常が、もっと自由なものだと思っていた。
経済に縛られることもなく、時間は無限にある。羨ましいとさえ思ったこともあった。
しかし、彼らはこの世界に何の影響も与えることができず、食事や睡眠といった欲求も奪われている。しかもこの街に縛られ、それ以上行動範囲を広げることもできない。そう思うと、彼らのことが不憫に思えてきた。
「と言うことは、別の街で生活していて、たまたまこの街で死んでしまったとしたら……家に戻ることもできないってことですか?」
「ああ、その通りだ」
その言葉に絶句した。
もし、家族のことが心残りでこの世界にとどまったとして。
たまたま別の場所で生を終えていたとしたら。
戻りたくても戻れないことになってしまう。
幽霊になってまで、この世界にとどまる決意をしたというのに。その家族に会うこともできないのだ。
それは絶望でしかない、そう思った。
「だからね、お嬢ちゃん。もしお嬢ちゃんがここを辞めたとしても、この街の中であれば、いつでも会うことはできる。まあ、会いたいと思ってくれればの話なんだけどね、ははっ」
「……」
夕子の表情を見て、品沢がフォローしてくれていることが分かった。その心遣いに応えたい、そう思った。
しかし夕子は表情を曇らせ、強張った笑みを向けることしかできなかった。
私は。いや、私たち生者は。
どれだけ恵まれた環境の中で生きているんだろう。
そして、そのことに感謝すらしていない。
彼らが望んでも手に入れられないものを、私たちはたくさん持っている。
そう思うと何でもいい、彼らの力になりたい。
自分にしかできないことがあるのなら、やってみたい。そう思った。
「それで……高坂さんのこと、ですよね。聞かせていただけますか」
小さく息を吐き、夕子が高坂に視線を向けた。




