力対力
「おぉー……そうかそうか……うんうん………そうだよな……」
軽部の申し出に対して、明日野は、力無く肩を落とし、うんうんと頷いていた。
理彩が、そんな少年を見て、ホッと胸を撫で下ろした瞬間。
明日野は、爆発的に動いた。
踏み込んだ足は地面にめり込み、人外の速さで、軽部に襲いかかったのだ。
しかし、相手もさることながら、並みの人間ではない。
それこそ、下級悪魔程度で在れば、千騎居ようが、平然となぎ払える熾天使。
明日野の猛攻に、軽部は、素早く反応し、明日野を止めた。
ガッキと組み合う大悪魔と熾天使。
両者がぶつかった瞬間、理沙は、激しい突風にも似た、衝撃を覚えた。
両者は、所謂、手四つで組み合う。
ただ、明日野は、右手に容器を握っているためか、軽部は、少年の手ではなく、その右手首を小さな左手で掴んでいた。
ギリギリという軋み音を立てながら、両雄、もとい、雌雄は互いに譲らない。
いい加減、業を煮やした明日野は、無理やりでも、飲ませんと、その眼を赤々と輝かせ、対面の軽部はと言うと、その眼を、金色に輝かせていた。
ただ、凄まじいまでの力と力のぶつかり合いなのだが、その理由が、痴情のもつれと言うのは、何とも言えない話である。
「残念だなぁ…………せっかく口移し…………してもらえると思ったのにぃ」
「あぁ、残念だな? 悪いが、生憎と俺は咲良以外にそう言うことをする気は…………微塵も無いんでな?」
僅かな言葉のやり取りの後、明日野の右手が、ほんの五ミリ程進む。
しかし、次の瞬間には、明日野が、押され初めてしまった。
天使と悪魔の、半ば本気のぶつかり合いに、理沙は気圧されるが、そんな少女の前には、あの老人が盾代わりに立っている事で、規格外の化け物同士が放つ闘気に飛ばされる事はなかった。
「お嬢さん…………絶対にワシの後ろから出たらいかんぞい? 鼻血じゃ済まんよってにな…………」
低い低い老人の声に、理沙は思わず、ゴクリと唾を飲んだ。
僅かずつではあっても、均衡は崩れ、天使と悪魔には、差が現れ始める。
あくまでも、軽部の顔からは余裕は崩れず、むしろ、優しく微笑んですらいるのだが、対する長身の明日野の顔はというと、歯を食いしばっていた。
理沙は見ていた。 軽部の金髪の髪の毛の少し上に、うっすらと浮かぶ輪を。
それは、どこかぼんやりと半透明だが、幾何学的模様を形成しつつ、優雅に、緩やかに回転をしつつも、確実に其処に在る。
『ほぅら………大ちゃん…………本気出さないと……ね?』
どこかエコーが掛かっている様に、軽部の優しい声が響く中、対する明日野は、ギシギシと、食いしばった歯を軋ませていた。
最近の理沙は、中学の図書室にて、色々と文献を読み漁った。
近所に、そして周辺に色々と現れた人達が、確実に人間かどうかは別にしろ、天使と悪魔について、色々と学んだ。
その結果として、理沙は一つ知っている事がある。
アスモデウスは、ガブリエルには勝てないかも知れないと言うことを。
事実、明日野は、僅かずつとは言え確実に圧されていた。
身長差は見るまでも無い。
体格についても、軽部は、明日野の四分の三程度にしか見えないが、それでも、頭に輪を輝かせる天使は、目を赤く輝かせる悪魔を、じりじりと制する。
素人眼にも関わらず、理彩にも分かった。
軽部は、本気所ではなく、それでいて、確実に明日野を凌駕していると。
いよいよ、明日野の膝は笑い、背は後ろへ反れ始める。
明日野は、エコーが掛かった声で『ヌゥッ……』と唸る。
その瞬間、軽部の頭の輪から、電球の様な形の幻が僅かに浮かび上がって、直ぐに消える。
ソレを見た老人は、小声で「ちと、まずいかのぅ」と、呟く。
明日野の不利を確認したのか、軽部は、嬉しげに笑った。
『理恵ね……良いこと思い付いたよ? ねぇ、大ちゃん……それをさ、大ちゃんに飲ませたら……どうなるのかな…………』
そんな、軽部の声に、明日野は勿論、理彩ですら目をカッと開いた。
必死に力を込めているためか、明日野からの言葉は無い。
『ほら…………ソレ飲むとさ、反転しちゃうんでしょ? だったらさ………わたしが、それをさ、大ちゃんに飲ませてあげる…………』
本気がどうかは知らないが、軽部がより明日野へと覆い被さる様に力を込めた。
キューピットの矢が、軽部に刺さった時よりも、激しく明日野の第六感が警笛を促す。
確かに、明日野自身もまた、横耳で少女と老人の会話を聞いてはいた。
つまり、仮に自分が飲まされた場合、どうなるのかを。
力と力のぶつかり合いの最中と言えど、軽部の余裕は、微塵も崩れない。
『ほら、大ちゃん言ったじゃない? 咲良さん以外は興味ないってさ…………ソレね、結構傷ついたよ? でもさ、ほら、反転するんでしょ?』
優しい言葉を掛ける軽部だが、その左手は、確実に明日野の顔へと向かって行く。
唸る以外に声すら出せずにいる明日野は、なんとか押し返そうと試みるのだが、悲しいかな、相手は最強とも噂される天使である。
徐々に近づいて来る容器を、まるで恐ろしいモノでも見るような目で見ていた。
このままでは、咲良への思いが、踏みにじられてしまう。
そんな、根源的な恐怖が、明日野に力を生んだ。
それでも、何とか拮抗しているに過ぎず、両者の顔から、どちら側が上なのか、理彩にも分かる。
思わず、理彩は老人の肩を揺さぶる。
「何とかしてあげてくださいよ! 友達なんでしょ!?」
もはや、隣人の窮地を捨て置けず、理沙はベルフェゴールを揺さぶる。
何も言おうとしない老人に、理沙は、少しだけキレた。
「前にだって明日野が捕まったのに……誰も何もしなかったんでしょうが!? そんなんで友達って言えるんですか!?」
相手の本来の立場を考えれば、実に有り得ない事である。
見ず知らずの、たかだか人間の小娘が、七大悪魔を叱責したのだ。
だが、意外にもかかわらず、老人は頬をポリポリと掻いた。
「…………おやおや、やっぱり手厳しいお嬢さんじゃの…………」
そう言うと、理沙を背後に立たせたまま、老人はゆっくりと睨みつかみ合う天使と悪魔へと、歩を進めた。
「ええかの? お嬢さん…………何度も言うが、絶対にワシの後ろから出たらいかんぞい?」
ベルフェゴールの優しい声に、理沙は「…………はい!」と返事を返していた。
本来の立場は逆転し、飲ませるはずの軽部に、明日野は、なんとか手の中のモノを飲まされまいと、必死に抵抗を試みる。
しかし、やはりと言うべきか、軽部の実力に嘘はなく、ミカエル程道具に頼りもしない。
現在、欧州を治めているウリエルも、消息不明のラファエルすら、実は軽部は興味がない。
金勘定にしか興味を示さない同胞など、ガブリエルとしての軽部は、既にどうとも思ってはいない。
彼女の今の心は、目の前で苦しげに顔を歪める少年へと向けられている。
彼を手に入れる為なら、少々の事など構ってすらいなかった。
しかし、絶対無敵と言う者が、宇宙には存在しないように、絶賛男へ意識を向けまくっている軽部ですら、同じ事がいえる。
老人は、どこか嫌らしい笑みを浮かべながら、ソッと、だが、確実に、軽部の尻を撫でたのだ。
「いやぁ……良いもんじゃの……若い子の桃と言うのは……」
そんな声と共に、老人は軽部の臀部を撫でさする。
しかしながら、それを間近で見ていた理沙は、少し当惑していた。
現行犯で、しかも目前で痴漢と言う行為が行われている訳なのだが、ソレですら、天使を止めるためだと老人から真面目に言われれば、仕方ないとも思えるが、やはり、見ている前で直に行われていると、少し、困惑した。
次の瞬間、軽部は、明日野の手を放し、横向き様に、老人を殴り飛ばした。
『…………何さらすんじゃボケがぁ!?』
小柄な少女とは言え、その声はドスが聞き、実に怖い。
理沙は、老人が弾丸の様に飛んで行くのを見ていたが、ほんの少しだけ、【ザマアミロ】と【ごめんなさい】という二律背反に悩む。
ともかく、無敵と歌われた天使に、格好の隙が出来た。
後は野となれ山となれ、明日野は素早く、容器の中身を口にし、怒り心頭に隙だらけの軽部の唇を奪う。
両者の唐突な【接吻?】を、理沙は手で顔を覆い隠してはいたが、ちゃっかりと、その指は開き、目隠しなしてはいなかった。




