19.母の怒り(1)
レースのカーテン越しに初夏の心地良い光が溢れる。物理の問題集を閉じ、優子は大きな伸びをした。土曜の午前に勉強をするなど、久しぶりのことだった。
バイトに集中するから当分は遊ばない。そうカナタが宣言してから二週間が経っている。初めは物足りなくも感じたが、三日もすれば慣れてしまい、今ではむしろ心穏やかに過ごす日々が続いている。イラつくことも呆れることもなくなり、時間にも余裕ができた。
昼前、優子はジーンズにTシャツという軽い服装で外に出た。近くの本屋までのんびり歩き、ハードボイルド小説とプロレス雑誌を買って帰路についた。道中、小さな公園が目につき、ふらふらと中に入った。ひとけもなかったのでだらしない姿勢でベンチに座り、雲を眺める。しばらくすると母から、『ご飯できたよ』とのチャットが入った。大きく伸びをしてから、再び帰路についた。
玄関扉を開けると、妙に騒がしいことに気づく。リビングに入って唖然とした。カナタと未來が昼食を食べているのだ。
「アンタたち、なにしてんのよ!」
「おっす」とカナタは手を上げ、未來は申し訳なさそうに、「おじゃましてます」と頭を下げた。
「優子ちゃん、お友達にそんな乱暴ないいかたしないで。さあ、アナタも早く食べなさい」
母がそうたしなめる。優子はカナタを睨みながら席に着いた。
昼食を食べ終えて、優子の部屋に入った。カナタは勝手知ったる部屋だが、未來は初めてのはずだ。
「相変わらず、可愛げのない部屋」カナタがプロレス団体のカレンダーを見て肩をすくめる。
「うるさいわね。ていうか、なんの用?」
「しばらく、ここにかくまって!」カナタが拝む仕草をした。
「はぁ! なんでよ!?」
「母が大激怒したから、逃亡中なの」
ソッコー売り飛ばして、穏やかな日々を取り戻す! 優子はすぐさま結論をだしたが、一応は理由を知っておきたかった。
「何やらかしたのさ?」
「この前の三者面談のことは話したよね」
「石油王とかいう馬鹿げた進路がばれないように、野口さんを召喚して誤魔化したって話? なーんだ、結局彩さんにバレちゃった、ってわけね」
だったらなおさら、彩さんに酷い目にあわされればいいんだ! 優子は口元をニヤリと歪めた。
「バレたのはそっちじゃなくて、チチのこと。正確にいうと、『父』とはばれてなくて、野口というオッサンと不倫してると、母は勘違いしているの」
「ほう。詳しく教えてよ」
優子は考えをあらためた。カナタを売って、すぐに終わらせるには勿体ない案件だ。もう少し楽しんでからでも遅くはない。
「三者面談の後に、チチとお茶したんだけどね。そのときにチチが、『認知するからDNA鑑定しよう』とかいいだしたの。だから、『アンタの家庭を壊すつもりはない』って突っぱねたんだ。それが結構大きな声でやりあっちゃって、母の友達にみられてたの」
「それで不倫と間違えられたわけね……」神妙なフリをして頷いていた優子だが、爆笑しそうになるのを我慢していた。
「しかも、認知とかDNA鑑定とかの単語がでたからか、私、妊娠してることになってるし」
「ぐっ……」優子は唇を噛みしめる。
「バイトに明け暮れているのも、中絶費用を捻出するためだと思われているみたい……」
「もうだめぇぇ!」優子は笑い転げた。
「なに笑ってんのよ!」
カナタが怒鳴るも、優子の笑いはしばらくおさまらなかった。
「ふうー。ごめんごめん。それよりさあ、どうして本当のこといわないの? 彩さんのため? 野口さんのため?」
「ハハもチチもいい大人だからどうでもよくて、マサシのため」
「マサシ?」
「この前教えたじゃん。私の腹違いの弟」
「ああ、思いだした。正志君ね。カナタみたいなバカな姉がいきなり降って湧いたうえに、私が拒否った『北極星の母』探しにこき使われた不幸な少年でしょ」
「いつも優子は一言も二言も多いのよ!」カナタは目を剥いたが、お願いする立場だからか、それ以上は突っかかってこなかった。
「で、彩さんの誤解を解かないのは、その正志君のためなの?」
「そうなの。ハハが野口家に介入して私たちの存在がバレたら、チチと正志の母親が離婚しちゃうかもしれない」
「あの彩さんが……そんなことするかな?」優子は首を傾げた。
「ラジッドのライブが中止になって今のハハは荒れてるから、何をしでかすかわからない」カナタは大きなため息を落とした。「正志も呼びたいんだけど、いい? もしものときのために、ちゃんと説明しておかなきゃ」
カナタが電話をかけ、家のチャイムが鳴ったのは一時間後だった。玄関扉を開けると驚くほどの美男子がいて、優子はごくりと喉を鳴らした。
すらりと背が高く、初夏の暑さを忘れさせるような清涼感のあるマスク。優子は一瞬で恋に落ち、カナタの弟だと思いだして、百年の恋も冷めた。
正志も優子の部屋に招き入れると、カナタがさっと全員の紹介をした。それが終わるのと同時に、優子の母がお茶とお菓子を持ってきた。先ほどカナタと未來のために持ってきたものとはグレードが違う洋菓子だ。母もイケメンには弱いのだ。
「美味しそうですね。ありがとうございます!」
屈託なく喜ぶ正志を満足そうに鑑賞していた母は、数分粘ってから部屋を出た。カナタの弟でさえなければと、優子も口惜しく思った。




