真実の鏡
「奥の部屋にある鏡を覗いてはいけないよ。あの鏡は真実の鏡と言ってね。見た者を不幸にするんだ」
「真実なのに、どうして不幸になるの?」
「知らないほうが良いこともあるってことさ」
困ったような笑みを浮かべながら、ワインが注がれたグラスをこちらに寄せてくる夫。
私も笑顔を浮かべながら、夫が差し出したワイングラスに自分のワイングラスを軽く合わせた。
ふたつのグラスがチン、とかすかな音を立てる。
夫は時々こういう風に、意味ありげな目線と共に笑うことがあった。
私はここ数日を除く、過去の大半の記憶がない。夫が言うには、とんでもない事故に巻き込まれたからそのショックで記憶が戻らないのだろうとのこと。
それもあってか、夫の視線や浮かべる表情の意味がよく分からないことがある。
その真実の鏡っていうのを見たら、私の過去について何か分からないかしら? でも、この人が覗くなって言うし……。
共に過ごした記憶すらほとんど失われてしまったけど、夫はそんな私を大事にしてくれている。
その夫が覗くなと言うのだから、きっと覗かないほうが良いのだろう。
好奇心は猫をも殺す……昔、小説か何かで読んだのだろうか、そんな言葉が思い浮かんだ。記憶はあやふやなのに、不思議なものだ。
家から出してくれないのはちょっと窮屈に感じることがあるけど、それも愛情の裏返しだと思うと、悪くはない。窓が全て塞がれてるのも、私を他の人に見せたくないからなのよね、きっと。
夫は優しいし、たくさんのメイドにかしずかれて不便もないし、あんまり文句を言ったらばちが当たるわ。
ただ、失われた記憶のことだけは、常に私の生活に大きな影を落としていた。
今日は、夫が外出したまま戻ってこない。
メイドたちに聞いたら、私が記憶をなくす前から、何度かそういうことがあったらしい。
なら別に気にすることはないか、と気楽に考えていたちょうどその時。
突然、爆音と振動が建物と私とを揺るがした。
「……!?」
続いてどたどたという激しい足音と、何やら激しい金属音が響き渡る。
何事かと慌てふためく私の前に、珍しく廊下をすごい勢いで走ってきたらしいメイド長が現れ……。
「ひいっ……!?」
私は彼女を見てものすごい悲鳴をあげてしまった。
その半身は焼けただれ、全身に矢が何本も突き刺さっている。
「どっ……どどどどっ……どうし……」
混乱で呂律も回らない私に、メイド長は必死の形相で口を開け。
「奥様……お逃げくだ……」
その言葉の途中、廊下の向こうから飛んできた真っ赤に燃え盛る槍が彼女に突き刺さり、あえなく彼女の全身は炎に包まれた。
「あ、あ、あ……」
さらに、複数の足音がこちらにやってこようとしている。
きっと、人の命をものともしないような、強盗か何かが襲ってきたんだ!
私は恐ろしい強盗たちから少しでも離れようと、屋敷の奥へと逃げ込んだ。
「ひ……ひい……っ……!!」
私は必死に逃げ惑うが、窓は塞がれているし外に出ることは出来ない。
かといって入口に向かったら強盗たちと鉢合わせするだけだし、必然的に私は屋敷の奥へと向かうこととなる。
な、何とか生き延びる方法はないの!?
そこで私は唐突に思い出した。もちろん、夫が言っていた奥の部屋にある鏡のことである。
真実の鏡だかなんだか知らないけど、きっと魔法の鏡なんでしょう。何かの役に立つかもしれないし、もし価値あるものなら引き換えに見逃してもらえるかもしれない……。
そんなわずかとも言えない希望にすがって、私はついに奥の部屋に到達した。
強盗たちは家探ししてるのか、まだここまで近づいて来る気配はない。急がなければ。
扉に手をかけ、勢いよく開く。
「あれね!」
部屋の片隅の壁に、たしかに鏡がかかっていた。
私は一縷の望みをかけて、その鏡の前に立ち……。
「……え?」
そこには、何も映っていなかった。
いや、正しく言うなら向かいの壁や、部屋の中の古ぼけた家具なんかは映っていた。
でも、私の姿が何も映ってなかった。
しばらく、思考が停止したように私はそこに立ち尽くし……。
この景色に私はどこかで読んだらしき、小説の一文が思い浮かんだ。
吸血鬼は鏡に映らない。
「ああ……あああああああああああああああああ!」
私は悲鳴を上げながらうずくまり、髪の毛をかきむしった。
ああ、思い出した! 思い出した!
私は、あの時夫に牙を突き立てられて!
夫だと思っていた人は、夫じゃなかった。いや、人ですらなかった。
いつわりの夫婦で仲良く飲んでいたワイン……鮮血のように真っ赤な!
私を追ってきたのか、強盗たちの乱暴な足音がはっきりと聞こえてくる。
いえ、彼らは強盗なんかじゃなかったのね……きっと、吸血鬼を退治しに来た正義の味方なのよ……。
私は立ち上がり、もう一度鏡を見た。やはり、鏡に私の姿は映らない。
口元に皮肉な笑みが浮かんでいることが、鏡像に頼ることなく分かる。
ここにあるのは真実の鏡じゃなかった。普通の鏡だった。でもこれ以上ないくらいに真実を映していた……。
私はこのまやかしの人生を終わらせるため、ゆっくりと扉に向かって歩きだした。




