第43話 王権の番人
うまくいった。
カーナ・アウグアはそう思っていた。
窓の外、中庭を渡る風が白髪の端を揺らした。
静かな部屋の中、老いた指先が机の表面をゆっくりと撫でる。
報告書はすでに読み終えていた。
アルヴァ・クラヴィス。王族から切り離せた。
それだけで十分だった。
(あの家系は、いつもそうだ)
血が古い。意志が強い。精霊と結びつく素地がある。
――だからこそ厄介だ。民は信じやすい。
精霊に言葉を借りる者を、人は神の使いと呼ぶ。
神の使いが王の隣に立てば、王権は揺らぐ。それがわからぬほど、愚かではない。
――王国とは何か。
指先が、机をなぞる。
それは民が王に忠義を捧げることで成立するものだ。
精霊信仰が入り込めば、民の心は分断され、王への忠義は塗り替えられていく。
王国が、神の国に変わる。
それは、許されない。
神ではなく、王が国を治めるのだ。
――そのために、五十年以上尽くしてきた。
***
第一王子ヴァレンスは、よく育った。
幼い頃から見ていた。感情より義務。私利より国益。
孤立せず、流されない。王族として、申し分ない。
(あの血が、この国を次の世代に繋ぐ)
初代王と共にこの地を治め、王国の骨格を作った者たち。
この王国の骨格を維持するのは、最初からここにいた者たちだ。
これは、揺るぎようがない。
だから、少し変化があると報告が上がってきた時も、大して気にはしなかった。
(王族も人の子だ。少しは堪えるだろう)
断罪の場は誰にとっても重い。
ヴァレンスが数日、部屋で考え込んだとしても不思議はない。
時間が経てば、義務の感覚が戻る。
それが信じられる器だからこそ、ヴァレンスに賭けてきたのだ。
――想定内だ。
***
次の報告を見て、違和感を覚えた。
(何かがおかしい)
ヴァレンスが最近、よく笑うようになったと言う。
人当たりがよくなった。言葉に張りが出た。
側近への当たりが柔らかくなった。
(何を吹き込まれた)
報告を読む指が止まる。
悪い変化ではない。
だが、人間が急に柔らかくなる時、その裏には必ず何かがある。
そして、次の報告が来た。
男爵家の娘が聖女と呼ばれているらしい。
それだけならいい。
ヴァレンスが自ら歩み寄っている、だと。
「……なんだと」
声に出てしまった。
とっさに手で口を塞ぐ。
振る舞いがまさに聖女である。魅力があるとのこと。
――どうでもいい。そういう問題ではない。
(男爵家の娘)
静かに息を吐いた。
叙爵されたばかりの血筋だ。
国のために戦った功績があるとしても、それは一代の話だ。
その血が、王の隣に立つ。
――許されるわけがない。
ヴァレンスが誰かに好意を持つのは構わない。
若者が誰かを慕うのは自然なことだ。
しかしそれが、国の行く末を左右するような話になるのならば——
(引き離さなければならない)
誰か使える者はいるか。近しい者の中で、動かせる人材は。
騎士団長の倅が腹を割って話せると聞いていた。
あの者なら、ヴァレンスの耳に自然な言葉を届けられるかもしれない。
指が机を叩く。
一度、二度。思考を刻む。
焦る必要はない。
五十年以上、この速さで動いてきた。
***
だが、その翌朝。
部屋に飛び込んできた報告に、表情が落ちた。
第一王子が。
大仰な首飾りを。
男爵家の娘に。
公の場で。
――贈った。
音が消える。
窓の外、朝の光がやけに穏やかだ。
心はこんなにも乱れているのに。
机の表面をゆっくりと撫でた。
(誰だ……)
静かな声が、胸の中で響いた。
(あの芋娘を、誰が連れてきた!)
爪が、机を抉った。




