第42話 あなたは見なかった
「わたしはもう限界です」
エルは机の上でぐったりしていた。
「こんなに長い時間、この姿でいたことはありません」とこぼしながら、前足を投げ出し、力なく机に沈み込む。
「禁断症状が出始めています」
尾がぴくぴくと落ち着きなく動く。
「わたしに……――わたしに、ラノベをください」
静かな屋敷に、誰もいない。
テルムは夕方から泊まり込みで調査に出ている。
――本来なら、この屋敷には誰もいないはずだった。
今はアルヴァと一緒に留守番中だ。
アルヴァがヴェレントの屋敷に居候するようになってから、昼も夜も、ほとんどの時間を一緒に過ごしていた。
「気が抜けません……」
ずっと猫のままでも問題はない。息抜きに人型になって本を漁る、それが今まで通りのやり方だった。
だが――
「エル―、こっちおいでー」
客間の方からアルヴァの声が聞こえた。
(アルヴァさんは、大の猫好きなんですよね……)
尾が垂れ、いそいそと客間に向かう。
ドアの隙間から客間に入り込むと、エルを見つけたアルヴァの顔が明るくなる。
(この顔を見ると、蔑ろにもできないですよ)
アルヴァの膝の上で丸まり、背中を撫でられる。
「今日は一緒に寝ようね」
抱きかかえられる。
逃げられない。
(なんとかしなければ……)
エルは深く息を吐いた。
***
翌日の昼過ぎ
「今日は実家に帰って、家の記録を調べてくるね」
明日には戻るから、と、アルヴァは出て行った。
ドアの前で尾を振り見送る。
ゆっくりとドアが閉まる。
足音が遠のき、やがて聞こえなくなる。
「……自由です」
エルはゆっくり立ち上がり、テルムの部屋に向かった。
「この日を逃してなるものか」
猫の姿がゆらりと揺れる。
次の瞬間。
そこには一人の少女が立っていた。
「最近読めていない分——」
エランは本を一冊手に取る。
「夜更かしして読んでやります!」
椅子に腰を下ろし、本を開いた瞬間、エランの目が一気に輝いた。
ページをめくる音だけが部屋に響き、一冊、また一冊と読み進めるうちに、机の周りはいつの間にか本の山になっていた。
「……もう一冊だけ」
その言葉の三十分後。
エランは本に埋もれて眠っていた。
***
「ただいま」
早朝。
アルヴァは両腕に大量の歴史書を抱え、ヴェレントの屋敷に戻ってきた。
(祖先の記録に気になる記述があった……)
足早に廊下を進み、テルムの部屋の前で足を止める。
(いつもなら、もう起きてるはずだけど……)
耳を澄ますと、中から小さな寝息が聞こえた。
「……?」アルヴァは首を傾げる。テルムだろうか。
でも——
(可愛い寝息だな)
少し笑いそうになった。
そっと扉を開けた。
中を覗く。
その瞬間、アルヴァの思考は停止した。
本の山の、その真ん中に、見覚えのない少女が無防備に眠っていた。長い髪の小柄な体が本に埋もれ、すやすやと寝息を立てている。
(え? ……え? え!?)
誰!?
思わず後ずさった、その瞬間。ガタッと椅子にぶつかり、部屋に短い音が響いた。
少女がぴくりと反応した。
心臓の音が響く。
少し待ったが、少女の手の位置が変わっただけだった。
(起きなかった……)
アルヴァは小さく息を吐き、胸をなでおろす――
瞬間、少女の目が開いた。
がさっ、と本が崩れる。
少女が勢いよく起き上がる。
二人の目が合った。
空気が張り詰め、時間が止まったように感じた。
しばらく、そのまま見つめ合う。
誰も動かない。
沈黙が、数秒続いた。
(あの髪の色、もしかして)
「……エル?」
アルヴァは恐る恐る口を開く。
「……」
少女が口を開いたが、言葉にならなかった。
少女の瞳が、猫のように細くなった。
そして言った。
「あなたは見なかった」
「え?」
「今のは夢」
「夢?」
少女は真顔で頷いた。
「そう、夢です」
***
「……なんだ、この状況は」
テルムは玄関で立ち止まった。
図書館から帰ってきたばかりだ。
だが、目の前の光景は理解できない。
部屋の中央。
エランとアルヴァが正座して向かい合っていた。
妙に静かだ。
「あなたは見なかった」
エランが言う。
「え?」
アルヴァが言う。
「今のは夢」
「夢?」
「そう、夢です」
行き場のない会話が続いている。
テルムはしばらく見ていた。
そして言った。
「……なにしてる」
二人が同時にこちらを見る。
エランが答えた。
「夢を見せていました」
「なぜ?」
「バレたからです」
「あー……」
テルムは理解した。
雑に説明する。
「これ、エル」
アルヴァが瞬く。
「人化できるんだ」
アルヴァはエランを見る。
エランは正座したまま小さくなっている。
テルムは続ける。
「本当の名前はエラン、女神から授かった神獣だ」
指をさす。
「女神と名前が一緒だから、猫のときはエルって呼んでる」
一瞬。
エランの目が輝いた。
「あ!」
元気よく立ち上がる。
「それでいいのか!」
そして胸を張る。
「そうです!」
指を立てる。
「わたしはエランです!」
勢いよく言う。
「女神と名前が一緒のエランです!」
テルムは頷いた。
アルヴァは静かに頷いた。
***
その夜。
会議は再開された。
エランは完全に本性を出していた。
帽子。
パイプ。
ホムズンスタイル。
壁に貼った紙の前に立ち、図を書き続けている。
ペンが走り、壁には『アウレン・クラディス』『イフリート』『賢人会』を結ぶ三角形と、矢印や丸、『ご先祖様』『契約』『対立』のメモが次々に書き足されていく。
タンッと短い音を立てて、真ん中に『アルヴァ』と書き込んだ。
エランは腕を組む。
「ふむ」
今度は『イフリート』『突然変異魔物(植物・鉱物)』『バトル』と書く。
魔物のほうには『テルムくんそっくりな魔術』と書き足す。
うんうん頷く。
「なるほど」
「おい、それはどうでもいいだろ!」
「いえ、大事な情報です。これはフラグですから」
「そっくりだったの?」「アウレンの日誌を見る限りは……似てる」
ペンを走らせるたび、余白はみるみる埋まっていく。
アルヴァはその様子を見ていた。
そして小さく言った。
「……なんかすごいね」
テルムは本をめくりながら答える。
「これが本性だ」
アルヴァは少し考え、頷く。
「……猫のときの方が静かだった」
ぽつりと、アルヴァは呟いた。
その瞬間。
エランが振り返る。
「ほら、そこ!」
ビシッとパイプを突き出す。
「事件解決に無駄話は不要ですよ!」
ペンが再び走る。
壁の図はどんどん増えていく。
会議は夜中まで続いた。




