銀の猫
猫の給仕はぶくぶくと泡立って崩れ、床に黒い染みが広がります。他の猫の給仕たちがヘンゼルからさらに距離を取りました。ヘンゼルが手を動かそうとするのと同時に、銀の猫は長剣を横に薙ぎます。しゃがみ込んでそれをかわし、立ち上がる勢いでヘンゼルは掌底を銀の猫の左胸に突き出しました。剣の柄で掌底を迎撃し、銀の猫は押される勢いのままに後ろに下がりました。
「感謝しようかと思ったのに」
手のひらをさすりながらヘンゼルは恨めしげに銀の猫をにらみます。銀の猫は平然と剣を構えました。
『不要な気遣いと存じます』
肩をすくめたヘンゼルの身体がわずかに揺れます。固く目を閉じてすぐに開き、ヘンゼルはリズムを取るようにその場で軽く跳躍を始めました。トン、トン、とヘンゼルの足が等間隔に床を打ちます。銀の猫はそれをじっと見つめ、
『館に満ちた甘い匂いは感覚を蝕む。常人ならば動くこともままならないでしょう』
その蒼い瞳で静かにヘンゼルの目を見据えました。
『――言い訳になさいますか?』
ヘンゼルは吹き出すように笑います。
「それは、カッコ悪いな」
安心したようにわずかに微笑み、銀の猫は身を低くして剣を水平に構えました。
『――これで、終いです』
触れられそうなほどの凄まじい殺気が銀の猫を中心に渦を巻きます。単調にリズムを刻みながら、ヘンゼルは銀の猫の動きを見つめます。深く息を吐き、ぐっと身をたわめて、刹那――銀の猫の足が床を抉りました。
颶風をまとった銀の猫が瞬時にヘンゼルとの距離を詰め、大気を裂いて鋭い突きを放ちます。その切っ先は正確にヘンゼルの心臓を狙っていました。リズムを刻んでいた足が床に着き、ヘンゼルは両腕を左右に広げます。銀の猫の瞳が金に輝き、ヘンゼルが息を止め、切っ先がヘンゼルの服を穿って――
――キン
左右から挟むように放たれたヘンゼルの掌打が、銀の猫の長剣の刃をへし折りました。刃はきりもみするように回転して壁に突き刺さり、銀の猫の目が大きく見開かれます。右に身体をひねって突きの姿勢のまま突っ込んでくる銀の猫の腕を取り、ヘンゼルは背負い投げの要領で床に叩きつけました。背をしたたかに打ち、銀の猫の呼吸が止まります。ヘンゼルは拳を強く握ると、一切の躊躇なく、全体重を込めて、銀の猫の心臓に拳を振り下ろしました。
「がはっ!」
銀の猫の身体が床の上で大きく跳ねます。ビクリと身体を痙攣させ、銀の猫は大の字に転がりました。ヘンゼルの額から汗が噴き出し、頬を伝い落ちていきます。銀の猫は動きません。か細い息の音だけが、まだ命を繋いでいることを伝えていました。
『……見事』
かすれた小さな声が銀の猫の口から漏れ出ます。ヘンゼルは大きく息を吐き、銀の猫の傍らに座り込みました。
「死ぬかと思ったぁ」
あぐらをかいて背を丸め、ヘンゼルは大きく息を吐きます。心臓を狙った切っ先がわずかに抉った胸から、じわりと赤い染みが服に滲んでいました。銀の猫は天井を見つめたまま、つぶやくように言いました。
『……私は、強かったですか?』
「二度と戦いたくないくらいにはね」
うんざりだ、と言わんばかりに顔をしかめ、ヘンゼルは答えます。銀の猫は目を閉じ、
『そう、ですか』
かすかに口の端を上げました。ヘンゼルはその顔をしばらく見つめると、「よっ」と気合の声を上げて立ち上がります。
「じゃ」
そう一声掛けて、ヘンゼルは銀の猫に背を向けました。銀の猫は目を開き、
『私の剣をお持ちください。壁に突き立てれば、魔女の部屋に続く扉が開きます』
天井を見上げたまま言いました。ヘンゼルは半ばから折れて床に転がる剣を拾い、軽く振ります。ひゅっと風を切る音が響きました。
「折れてても大丈夫?」
『さあ。試したことがありませんので』
飾り気のない鍔を眺めるヘンゼルに、澄ました顔で銀の猫が答えます。ヘンゼルはがっかりしたような渋い顔で銀の猫を見つめました。銀の猫は心外そうに鼻を鳴らしました。
『貰い物に過剰な期待をなさいませんように』
「確かに」
ヘンゼルは反省した顔で答え、壁に寄って折れた剣を突き立てました。亀裂というにはきれいすぎる切れ目がまっすぐに床まで延び、壁がパカリと開きました。「おお」と感嘆の声を上げたヘンゼルに、銀の猫は静かに告げます。
『その奥に、妹様がいらっしゃいます』
ヘンゼルは表情を改め、銀の猫に頭を下げました。
「感謝する」
壁の向こうには緩やかにカーブを描いて闇へと降りていく階段が見えます。ヘンゼルは闇の奥を見据え、早足で階段を降りていきました。足音が反響し、徐々に小さくなり、やがて聞こえなくなります。銀の猫は大きく息を吐きました。身体の末端が泡立ち、徐々に形を失っていきます。
『魔女に生み出されたなら、魔女を裏切れば消えるが道理か』
美しい銀の毛並みが黒ずみ、手足が泥となって崩れていきます。銀の猫は、笑っていました。
『泥人形には、過ぎた生よ』
銀の猫は目を閉じます。泡立ち、弾けて、広がり――やがてそこには、折れた刃と、汚れた服と、絨毯についた黒い染みが残るだけ――他には何もありませんでした。




