地下室
――タッ、タッ
地下へと続く薄暗い階段を、壁に反響した靴音が降りていきます。先導するウサギの手には手のひらほどの火の玉が浮かび、頼りなく足元を照らしていました。らせんを描く階段が見せる景色は単調に積み上げられた石壁だけで、距離感と方向感覚を狂わせます。心の中で歩数を数えながら、グレーテルは慎重にウサギの背を追っていました。火の玉に照らされた影が形を変えながら石壁に踊ります。
『――こちらが主の私室でございます』
どこまでも落ちていくような階段がようやく終わり、グレーテルは一つの扉の正面に立ちました。地上の館とはうって変わって、扉はひどく飾り気のない木製のもので、金属のノッカーが付けられているのみです。どこか沈鬱に佇む扉をウサギはコンコンとノッカーで叩きました。
『失礼いたします。お客様をお連れしました』
扉が軋んだ音を立ててひとりでに開きます。扉の向こうから広がる光にグレーテルは目を細めました。
「入りな」
しわがれた声が飛び、ウサギは室内を指し示します。グレーテルは部屋に踏み入り――とっさに右腕で鼻と口を塞ぎました。ツンと鼻を突く刺激臭が部屋に充満しています。部屋の中は赤褐色の液体の入った三角フラスコや、濃さの違う暗緑色の液体を入れた試験管が並び、ぐつぐつと煮えたぎった大鍋から湯気が上がっています。部屋の奥には大きな黒檀の机が置かれ、暗紫色のフード付きローブを身にまとった一人の老婆が椅子に座って本を開いていました。金縁のモノクルを外し、老婆はぎょろりとした目をグレーテルに向けます。
「安心しな。毒じゃぁない。紙一重じゃあるがね」
ヒヒヒ、と意地悪く笑うこの老婆こそが、お菓子の家の主――つまり魔女、なのでしょう。グレーテルは目だけを動かし、素早く室内を見渡しました。部屋は大半が奇妙な器具で占められ、壁際には本棚が並んでいます。本棚に埋もれるように、控えめに小さな扉があるのが見えました。
「あたしに挨拶したいんだって? そんなに急かずとも、夕餉には会えたろうに」
大きな鷲鼻に白過ぎる歯は、伝え聞く魔女そのものです。侮り、蔑むその視線を怯むこともなく受け止め、グレーテルは鼻と口を塞いでいた腕を下ろすと、微笑んで言いました。
「その時に口を利けなくなっていては困りますから」
魔女はかすかに目を見開き、吹き出すように笑います。
「この魔女を前にして大した胆力だ。うちのウサギが実力行使に出ざるをえなかった理由がよく分かったよ」
ウサギが恐縮したように深くお辞儀をします。グレーテルは改めて周囲を見渡し、魔女に尋ねました。
「これは、何を?」
魔女は楽しそうに歪んだ目をグレーテルに向けました。
「おや、時間稼ぎかい?」
「どうでしょう?」
グレーテルは澄ました顔で首を傾げます。魔女はクククと喉の奥で笑いました。
「今頃あんたのお兄ちゃんは、館の猫どもに追いかけられて泣いてるだろうさ。耳を澄ましてごらん。聞こえるだろう? お兄ちゃんの命を乞う声が」
ねめつけるように魔女はグレーテルを見据えます。グレーテルは小さく笑いました。
「あら、おばあ様。ずいぶんとお年を召されたのね。そんな幻聴が聞こえるなんて」
「……なんだって?」
口元を右手で隠すグレーテルに魔女は低く物騒な声で問い返します。グレーテルは笑いを収め、射抜くように魔女を見据えました。
「ヘンゼルが泣いて命乞いをするなどあり得ない。私の兄は死地の只中にあってこそ笑うのだから」
魔女の瞳が凍えるような殺意を伴ってグレーテルを見返します。グレーテルは表情を消し、目を逸らさずに対峙していました。空気が張り詰め、鍋が煮えたぎる音だけが聞こえます。ウサギは二人の顔を交互に見ながらカタカタと身を震わせました。しばし視線を切り結び――不意に魔女が笑います。
「本当に大したガキだよ。いいだろう、その強心臓に免じて何でも答えてやる」
グレーテルはスカートをつまみ、足を交差させて優雅に微笑みました。




