礼節
振り抜いた拳がアゴを砕き、目の前の猫の給仕がぐらりと身体を揺らせて床に倒れました。ヘンゼルは荒く息を吐き、廊下を埋め尽くす猫たちをにらみました。目はかすみ、ときおり視界が歪みます。鋭利な爪をむき出しにして、猫の縦に細くなった目がヘンゼルを見ていました。
「僕は館に招かれたお客様、じゃなかったっけ?」
油断なく周囲を警戒しながら、ヘンゼルは抗議するようにつぶやきました。銀の毛並みの、おそらく給仕たちを統括する猫が無表情に答えます。
『こうも暴れられては、当館としても対処せざるを得ません』
「そっちが仕掛けてきたのに?」
左右から襲いくる猫の給仕を、左の肘打ちと右の上段蹴りで沈め、納得いかなさそうにヘンゼルは口を尖らせました。倒れた猫たちはぶくぶくと泡を立てて形を失い、床に染みとなって広がります。「遮蔽物にもなりゃしない」とヘンゼルは鼻を鳴らしました。
『発端は兄妹での争いと聞き及んでございます』
「あ、そういう理屈?」
後ろから襲ってきた猫の腕を取り、背負い投げの要領で正面にいた猫にぶつけて、ヘンゼルはパンパンと軽く手を払いました。
「ずるくない?」
『決まりに則って対応しておりますので』
猫の給仕は湧き出るように廊下の向こうからいくらでも駆けつけます。ヘンゼルは袖で顔の汗を拭いました。身体がわずかに揺れていることを自覚して、ヘンゼルは忌々しげに舌を打ちました。
『もう、おやめなさい。抵抗は無駄だと、理解しているでしょう?』
銀の猫の言葉に今までにない感情を感じ取り、ヘンゼルは軽く目を見張ります。銀の猫は無表情に言葉を続けました。
『我らは主が泥から作った人形。いくら打ち倒そうとも無限に現れます。館に充満する甘い匂いと口に含んだケーキで、あなたの意識は相当に蝕まれている。その状態でどれだけ戦えるとお思いか?』
ヘンゼルは面白そうなものを見る目で銀の猫を見つめました。
「心配してくれるの? 嬉しいね。ついでに道を空けてくれたらもっと嬉しいんだけど」
銀の猫は目をつむり、首を横に振ります。
『……どうせ終わるなら、苦しみなく、穏やかな幻の中で終わるほうがよいとは思いませんか?』
ヘンゼルは「うーん」と思案げに視線を上げ、
「それもいいかもしれないけど」
そう言って苦笑いを浮かべました。
「残念ながら、僕は『兄』だからね」
銀の猫が大きく目を見開きます。ヘンゼルは息を吸って構えると、静かに銀の猫を見据えました。
「やろうか」
銀の猫はじっとヘンゼルを見つめ返すと、軽く手を上げて周囲の猫たちを下がらせます。隣にいた猫がうやうやしく長剣を差し出しました。銀の猫はそれを受け取り、鞘を払って正眼に構えます。
『参ります』
肌を刺す殺意が空気を震わせ、ヘンゼルはにぃっと不敵な笑みを浮かべました。
銀の猫は一切の小細工なくまっすぐに踏み込み、稲妻の如き突きをヘンゼルの胴に放ちました。ヘンゼルは身をよじってそれをかわします。銀の猫は流れる水の如く剣を横に薙ぎました。ヘンゼルは後ろに飛びずさります。銀の猫は剣を切り返し、さらに踏み込んで右肩を狙います。ヘンゼルはさらに後ろに下がり、銀の猫が振り下ろした刃が光の弧を描きました。
「手加減はなし?」
ヘンゼルの服の左脇腹と右肩が裂かれ、わずかに血が滲みます。銀の猫は再び正眼に剣を構えました。
『礼節に悖るかと』
ヘンゼルは肩をすくめて笑います。
「まじめ」
『悪くもないでしょう?』
表情を変えずそう言って、銀の猫は再び鋭い突きを放ちました。その切っ先はヘンゼルの胴――よりも下、左の腿を狙います。頬を歪ませ、ヘンゼルは左足を引きつつ銀の猫の左手の甲を右の掌で打ち下ろしました。長剣の先端が床を穿ちます。前に泳いだ銀の猫の顔にヘンゼルは左の拳を振り抜きました。拳は身を沈めた銀の猫の額を掠めます。右足を踏ん張り、銀の猫は身体をよじって剣を斬り上げます。ヘンゼルは身を前に投げ出してそれをかわし、前転した勢いで立ち上がると素早く振り返りました。銀の猫は体勢を整えて剣をヘンゼルに向けています。ヘンゼルは深く長い息を吐きました。
感覚を確かめるようにその場で跳躍すると、ヘンゼルはグッと膝をたわませて床を蹴り、一気に銀の猫に詰め寄ります。銀の猫は冷静に距離を見極め、長剣を斬り下ろしました。ヘンゼルは剣の間合いに入る直前、強引に床を踏み込んでほぼ真横に飛び、銀の猫の右手側に回り込みます。銀の猫は右に足を踏み出して長剣を真横に奔らせました。踏み込み損ね、後ろに飛びずさったヘンゼルの腹が浅く裂かれます。銀の猫は踏み出しながら斬り上げ、斬り下ろし、突きを放ちます。剣舞のように型通りの正統剣術はその速さと崩れの無さで一切の隙を見せません。ヘンゼルは下がり、さらに下がって――
――ガシッ!
下がらされていたはずの猫の給仕の一体に腕を掴まれました。銀の猫に気を取られ、他への警戒を怠った――あり得ないミスにヘンゼルの顔が引きつります。銀の猫は迅雷の如く踏み込み、剣の切っ先をヘンゼルの首に向け――
『ギャアァァァーーーッ!』
突き出した剣は首のわずか数ミリをかすめ、ヘンゼルの腕を掴んでいた猫の給仕の右目を貫きました。銀の猫は小さくつぶやきます。
『無粋』




