侮辱
『最高のお客様をもてなすためには最高の接客をしなければなりません。どうぞしばしお待ちください。今までに体験したことの無い世界を、お二人にお見せいたしましょう』
酷薄な光を湛えた紅い瞳でウサギはそう言うと、パン、と強く手を叩きます。猫の給仕たちがそれを合図に、山と積まれたお菓子を片付け始めました。グレーテルは眉を顰め、ウサギに尋ねます。
「おやつの時間はもう終わり?」
ウサギはゆっくりと首を横に振ります。
『いいえ。しかしどうやら当館のお菓子はお二人の口に合わないご様子。ならば別の甘さをご用意させていただければと』
ウサギの答えにわずかに目を眇め、グレーテルはヘンゼルに視線を送りました。ヘンゼルはグレーテルの視線に気付かないのか、まったく別の方向を見ています。
「あ、僕も」
不意にヘンゼルが、脈絡もなくそう口にしました。グレーテルの背に冷たいものが走ります。グレーテルはヘンゼルに手を伸ばし――その手を避けるように、ヘンゼルは椅子から立ち上がりました。椅子が床を擦り、ギギギと音を立てます。猫の給仕がヘンゼルに近付き、
「では、ドレスルームにご案内いたします。こちらへ」
と言ってヘンゼルの手を取りました。ヘンゼルは疑う様子もなく猫の給仕に従います。グレーテルが顔を強張らせ、
「ヘンゼ――」
ぱちんっ
グレーテルの声を断ち切るようにウサギが指を鳴らし、室内の灯りが一斉に消えました。明るさに慣れた目が急に光を失って、グレーテルは軽く頭を押さえます。暗闇の中、場違いなほどに明るいウサギの声が響きます。
『さあ、どうやら準備が整ったようでございます。特別なお客様のための、当館からの特別なサービスをどうぞ、ご堪能ください!』
――キィ
かすかな軋みを上げて、ダイニングの入り口の扉が開きます。玄関ホールから灯りが室内に入り込み――逆光の中に一人の人物が立っていました。
ウサギが再びぱちんと指を鳴らします。ダイニングのテーブルの上の燭台の幾つかに火が灯り、入り口に立つ人物の顔を浮かび上がらせます。グレーテルは大きく目を見開きました。胸の前で手を握り、不安げに肩を震わせた一人の女性がグレーテルを見ています。
「お、かあ、さん――」
呆然とつぶやくグレーテルの手が固く握られます。そこにいたのは間違いなく、ヘンゼルとグレーテルのお母さんの姿でした。お母さんは目に涙を浮かべます。
「ごめんなさい、グレーテル。ごめんなさい。私が間違っていた。どんなに貧しくても、どんなに苦しくても、あなたたちを手放すべきではなかった。手放してはいけなかった!」
お母さんの目から涙がこぼれ、頬を伝い落ちます。グレーテルは目を伏せました。
「愛しているわ、グレーテル。私の可愛い娘。愚かな私を赦して。そして、帰りましょう。私たちの家に。もう一度、家族そろって、幸せに暮らしましょう」
お母さんは一歩、グレーテルに向かって踏み出します。グレーテルは首を横に振りました。
「……どうやって幸せになるの? 明日のパンもない、だから私たちを捨てたのでしょう?」
「お母さんも、お父さんも、もっともっと頑張って働くから。もう二人にひもじい思いなんてさせない」
お母さんはさらに一歩、グレーテルとの距離を詰めます。グレーテルは顔を上げ、お母さんを見つめました。
「朝から日暮れまでよその畑を手伝って、夜には内職をして、農閑期には出稼ぎで。寝る暇もないほど働いているじゃない。これ以上どうやって働くの?」
「大丈夫よ。子供が心配することじゃない。今度のことでよくわかった。家族が離れ離れになること以上に苦しいことはないの。そのことを思えば、お母さんなんだって耐えられるわ」
お母さんはまた一歩、グレーテルに迫ります。グレーテルは固く目を閉じました。
「どうしてそんな顔をするの? お母さんと一緒に暮らすのが嫌なの? お母さんが嫌いになってしまったの?」
罪を詰るように、お母さんは憐れみを乞う瞳でグレーテルを見つめます。グレーテルは無言で首を横に振りました。お母さんは手を後ろに回し、その顔に笑みを浮かべて、
「さあ、グレーテル。私にあなたを抱きしめさせてちょうだい。愛しい娘の温もりを、お母さんに感じさせてちょうだい」
こらえきれなくなったようにグレーテルに向かって駆け出します。グレーテルは唇を噛み、振り返ってテーブルの上の燭台を掴むと、駆け寄ってくるお母さんに突きつけました。
「来ないで、偽物」
お母さんは燭台が届かないギリギリの位置で足を止め、驚いたように目を丸くしました。
「どうしたの、グレーテル? あなたはお母さんを拒むの?」
「黙れ」
被害者のように目を潤ませるお母さんを、グレーテルは鋭くにらみつけます。
「後悔したから迎えに来た? ふざけないで。お母さんはそんな半端な覚悟で私たちを捨てたのではないわ。このまま手をこまねいていては四人とも死ぬ。二人を生かすために二人を捨てた、そこに感傷の余地はない。お母さんは自らの意志で、自ら決断したの」
グレーテルの双眸に、燃え盛る炎のような怒りが宿りました。
「私のお母さんを、侮辱するな」




