野苺
ドレスルームへと続く廊下は、深く沈む赤い絨毯が敷かれ、等間隔に据えられた燭台が柔らかに照らしています。グレーテルはゆっくりと歩きながら、並んで歩くヘンゼルに話しかけました。
「ケーキ、口に含んで大丈夫だった?」
ヘンゼルは鼻にシワを寄せて答えます。
「毒の類じゃあない。食べても死にはしなかったと思う。ただ、異常に甘かった。舌がマヒしそうだ」
顔をしかめたまま、ヘンゼルは舌を出します。グレーテルは考えるように視線を落としました。
「甘ったる匂い、管弦楽の音、異常に甘いケーキ――魔女は五感を奪いにきている?」
「そうだとして、目的は?」
ヘンゼルに問われ、グレーテルは足を止めて右手で口元を覆いました。
「……魔女はそもそも私たちを食べるのが目的なのだから、毒殺は本意ではないのかもしれない。お兄ちゃんは毒で死んだ鶏の肉を食べたいと思う?」
グレーテルに問い返されたヘンゼルは一瞬、考えるように視線を上げ、少しの間の後に答えます。
「食べたくない」
「でしょう?」
再び視線を下げ、グレーテルは思考に沈みます。
「私たちが警戒すべきは直接的な方法じゃないのかもしれない。もっと別のところに意識を向けたほうがいいのかも」
「毒殺が否定されるとして、五感を奪いにくる理由にはなってなくないか?」
手持無沙汰そうにポケットをまさぐりながら、ヘンゼルは言いました。「ふーむ」とうなり、グレーテルは答えを探るようにつぶやきます。
「……五感を奪う。現実感を、なくす? 現実を、感じさせない――夢を、見せる」
ハッと顔を上げ、グレーテルはヘンゼルに詰め寄るように近付きました。
「魔女は食にこだわりがあるのかも」
「どういうこと?」
グレーテルの勢いに押されるように、ヘンゼルは一歩下がって距離を取ります。グレーテルはどこか教師のような口調で言いました。
「知ってる? 家畜にストレスを与えると肉質が落ちるの。だから精肉の時には、極めて短時間に命を奪う必要がある」
「へぇ。そうなんだ」
ヘンゼルはあまり興味の無さそうにそう言って、ポケットから野苺を取り出しました。「結局何も食べてないんだよな」とつぶやき、ひょいっと口に放り込みます。グレーテルは構う様子もなく話を続けました。
「お菓子も、もてなしも、明るい部屋も、全部『獲物にストレスを与えない』装置と考えたらどうかしら? 五感を奪い、幻を見せて、命を奪うその瞬間まで幸せを誤認させる。そして、最後の瞬間に一瞬で刈り取る。それが魔女の狙いなのかもしれない」
ヘンゼルはもぐもぐと口を動かし、不快そうに顔をしかめました。ペッと手の中に野苺を吐き出し、じっとそれを見つめるヘンゼルに、グレーテルは真剣な目を向けます。
「お兄ちゃん」
ヘンゼルはグレーテルに顔を向け、その目を見つめ返しました。
「私を、信じる?」
ヘンゼルは吹き出すように笑って、ドレスルームに向かって歩き始めます。
「何を当たり前のこと言ってるのさ。妹を信じない兄なんていないよ」
手を頭の後ろに回し、ヘンゼルは歩いていきます。
「ありがとう」
ヘンゼルの無防備な背を見つめ、グレーテルはそう言うと、袖に仕込んだナイフを取り出し、嬉しそうに嗤いました。
ゆっくりと前に進むヘンゼルを追い、ナイフを手にしたグレーテルが廊下を駆けます。絨毯は足音を消し、グレーテルはすぐにヘンゼルに追いつきました。グレーテルはヘンゼルの首に向けてナイフを振りかぶります。燭台の火がナイフに反射し――ヘンゼルは素早く振り返ると、グレーテルの手首を掴みました。
「どうして――?」
目を見開いたグレーテルの手を、ヘンゼルは拳で打ち据えます。痛みに顔をしかめ、グレーテルはナイフを落としました。足でナイフを蹴って飛ばし、ヘンゼルは膝でグレーテルのみぞおちを抉ります。「ぐぇ」とうめくグレーテルから手を離し、ヘンゼルは身体を横に半回転させて勢いを付け、グレーテルの胸を強く蹴り出しました。グレーテルの身体は吹き飛び、廊下の壁に背をぶつけます。糸の切れた人形のようにずるすると壁を滑り落ち、グレーテルはぐったりと座り込みました。
「……なぜ、気付いた? お前はもう囚われていたはず」
グレーテル――の姿をした者――は紅い瞳でヘンゼルをにらみます。小さく鼻を鳴らしてヘンゼルは答えました。
「グレーテルは僕を『お兄ちゃん』なんて呼ばない」
グレーテルの姿をした者はギリリと奥歯を噛みます。それに、とヘンゼルはグレーテルの姿をした者を冷ややかに見つめました。
「騙されようが洗脳されようが、グレーテルが僕を殺そうとすることはないよ」
グレーテルの姿をした者の輪郭がぐにゃりと歪み、どろどろと溶けていきます。やがてそれは完全に形を失い、絨毯に黒いシミを残して消えてしまいました。深く息を吐き、ヘンデルはつぶやきます。
「グレーテルを探さないと」
足を踏み出し、よろけ、壁に手を突き、ヘンゼルは頭を振ります。ふっと強く短い息を吐き、顔を上げ、正面をにらんで、ヘンゼルは駆け出しました。




