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第32話 見えているものが違う

 山道に入った頃には、荷車の車輪が三度目の石を踏んでいた。


 ゴトン。


 積み荷が揺れる。


「……この道、ずっとこんな感じ?」


 ピエナが荷台の横を歩きながら訊いた。


「今日はまだマシな方だな」


 御者台の商人が振り返る。


「昨日の雨で少し崩れたらしい。街道を使えれば楽なんだが、あっちは橋の修理中でな」


「なるほど」


 セインは前方を見る。


 道幅は広くない。


 右側は斜面。


 左側は崖というほどではないが、落ちれば普通に痛そうな高さがある。


 荷車が一台通るには十分。


 戦うには、あまり十分ではなかった。


「護衛って、もっと広い道でするものかと思ってた」


 クリスが言う。


「道は選べないだろ」


「そうなんだ」


「そこからなの?」


 ピエナが振り返る。


 クリスは普通の顔をしていた。


 相変わらず、知らないものは知らない。


 その代わり。


 戦いになると、妙に知っている。


 正確には、知っているというより――見えているものが違う。


 それを三人が改めて思い知るまで、それほど時間はかからなかった。


 先頭を歩いていたセインが足を止める。


「……いる」


 道の先。


 岩陰から灰色の影が一つ出た。


 四つ脚。


 細身。


 狼に似ているが、前脚だけが妙に長い。


 さらに一体。


 斜面の上からもう一体。


 合計三体。


 商人が息を呑む。


「ハヤアシだ」


「名前、そのまんまだね」


 クリスが言った。


「速いんだよ!」


 商人が少し怒った。


「なるほど」


 クリスは納得した。


 名前に対する納得であって、危険性に対する納得ではなかった。


「荷車から離れないで」


 セインが言う。


 商人が手綱を握り直す。


 ピエナは前へ出かけて、すぐ止まった。


「ここ、爆裂撃ちにくいね」


「ああ。荷車もあるし、道も狭い」


「小さいのなら使えるけど」


「無理しなくていい」


 セインは指先から《粘糸》を出す。


 昨日手に入れた《鋭化》も試したかった。


 だが道が狭い。


 鋭い糸を好き勝手に張れば、魔物より先に商人の荷物を切るかもしれない。


 それは護衛ではない。


 仕事を増やしている。


「俺が前行くよ」


 クリスが剣を抜いた。


「三体いるぞ」


「うん」


「速いらしいぞ」


「うん」


「分かってる?」


「たぶん」


 その返事だけ聞くと非常に不安だった。


 だがクリスは普通に前へ出た。


 一体目のハヤアシが地面を蹴る。


 速い。


 本当に名前通りだった。


 一直線にクリスへ飛びかかる。


「クリス!」


 ピエナが声を上げる。


 クリスはほとんど動かなかった。


 ぎりぎりまで引きつける。


 牙が届く直前。


 半歩。


 それだけ横へずれた。


 ハヤアシが空を噛む。


 クリスは通り過ぎた背中へ剣の腹を軽く当てた。


「《衝撃》」


 ドン、と鈍い音。


 大きく吹き飛ばさない。


 ほんの少しだけ軌道をずらす。


 ハヤアシの前脚がもつれ、そのまま道端へ転がった。


「……今の、弱くした?」


 ピエナが訊く。


「うん。強くすると崖から落ちそうだったから」


「そこまで考えてたんだ」


「落ちたら回収大変そうだし」


「理由がちょっと違った」


 二体目が走る。


 クリスはそちらを見た。


「こいつはさっきのより右に逃げる」


「分かるのか?」


 セインが訊く。


「たぶん」


「何見てる?」


「んー……」


 クリスが少し考える。


 考えている間にも魔物は迫っている。


「右の前脚かな」


「前脚?」


「走る前に、ちょっとだけ外へ開く」


 言った直後、ハヤアシが飛び込んだ。


 クリスが剣を振る。


 魔物は攻撃を避けようと――右へ跳んだ。


 そこへクリスの足がすでにあった。


「ほら」


「ほら、じゃないよ!」


 ピエナが笑う。


 クリスは魔物の肩へ軽い《衝撃》を入れる。


 体勢が崩れる。


 そこへセインの《粘糸》が飛んだ。


「今!」


 脚へ巻きつく。


 魔物が転がった。


「おお」


「何?」


「いや、ほんとに右行ったな」


「行くと思ったから」


「だからそれがすごいんだよ」


 セインは感心していた。


 クリス自身は、いまいち何を褒められているのか分かっていない顔だった。


 三体目が動く。


 今度はクリスではなく、荷車を狙った。


「そっち!」


 ピエナが小さな《爆裂》を地面の横へ落とす。


 爆発。


 ハヤアシが驚いて進路を変えた。


 その先にはセインがいた。


「来た!」


 《粘糸》。


 まず進路を塞ぐ。


 魔物が跳ぶ。


 セインは次に《吸着》へ切り替え、崖側の岩へ片足を固定した。


 さらに《鋭化》――。


 その瞬間。


 胸の奥で。


 ほんの一瞬だけ。


 引っかかった。


「……?」


 意識が止まるほどではない。


 痛くもない。


 ただ、何かを取り出そうとした時、狭い隙間へ指が引っかかったような。


 それだけ。


 だが戦闘中の一瞬は長い。


 ハヤアシの牙が迫る。


「セイン!」


 クリスが割り込んだ。


 セインの肩を掴んで引く。


 同時に、自分は身体を反らす。


 牙が目の前を抜けた。


 そこから体勢を崩さず、剣の柄を魔物の脇腹へ当てる。


「《衝撃》」


 ドッ。


 魔物が横へずれる。


 ピエナの小爆発が、その先の地面を叩いた。


 驚いて跳んだところへ、今度こそセインの《粘糸》。


 前脚へ絡む。


 地面へ転がった。


 三体とも動けなくなったところで、山道に静けさが戻った。


 商人が荷車の陰から顔を出す。


「……終わったか?」


「たぶん」


 クリスが言った。


「その“たぶん”怖いんだが」


「全部倒れてるよ」


「じゃあ終わってるだろ!」


 商人の方がツッコんだ。


 三人が魔物を確認している間、セインは自分の胸へ手を当てた。


「さっきの何だったんだろ」


 クリスが振り返る。


「やっぱり遅れたよね」


「分かったのか?」


「うん」


 ピエナも近づく。


「何があったの?」


「《鋭化》に切り替えようとした時、ちょっとだけ引っかかった」


「痛い?」


「いや」


「使えない?」


「それも違う」


 試しに《鋭化》。


 問題なく使える。


 《粘糸》。


 使える。


 《吸着》。


 これも普通だ。


「……何ともないな」


「疲れてるんじゃない?」


 ピエナが言う。


「昨日、三つ同時に使おうとしてたし」


「それはあるかも」


「絶対あるでしょ」


 まだ少し昨日のことを根に持っている声音だった。


 セインは深く考えなかった。


 今使えるなら、とりあえず問題はない。


 それより気になったのは別のことだった。


「クリス」


「ん?」


「さっき、よく間に合ったな」


「セインが止まったから」


「いや、それ見てから魔物も避けただろ」


「うん」


「どうやって?」


「どうやってって……」


 クリスが困った。


 しばらく考える。


「セインの肩が止まって、魔物の頭がちょっと下がって、次に来る場所がなんとなく分かった」


「なんとなくでできるの?」


 ピエナが訊く。


「できたよ」


「説明になってないな」


「説明難しいんだよ」


 クリスは本気で困っていた。


 そこで商人が笑う。


「兄ちゃん、すごいな」


「僕?」


「ああ。あんな速いやつ相手に、ずっと余裕だったじゃないか」


「余裕ではないよ」


「そう見えたぞ」


「そうかな」


 クリスが首を傾げる。


 セインは少し笑った。


「こいつ、戦うことに関しては本当にすごいぞ」


「うん」


 ピエナも頷く。


「そこは本当にすごい」


 クリスが二人を見る。


「そこは?」


「そこは」


「他は?」


 ピエナが少し考える。


「顔?」


「顔もなんだ」


「それは否定しないんだな」


 セインが言う。


 クリスは普通に頷いた。


「よく言われるから」


「そこは素直なんだ」


 商人が声を出して笑った。


 荷車は再び山道を進み始めた。


 その後も何度か小さなトラブルはあったが、魔物が出ることはなかった。


 夕方。


 目的の町へ着き、商人と別れたあと。


 三人は宿へ向かって歩いていた。


 ピエナがクリスを見る。


「でも今日、ちょっとかっこよかったね」


「今日?」


「戦ってる時」


「いつもは?」


「顔はいつも」


「また顔なんだ」


「戦ってない時は変なこと言うから」


「そんなに言ってる?」


 セインが口を挟む。


「言ってる」


「例えば?」


「それ聞く?」


 三人の会話がそのまま夜道へ続いていく。


 少し後ろを歩きながら、セインはもう一度だけ胸の奥へ意識を向けた。


 《粘糸》。


 《吸着》。


 《振動》。


 《鋭化》。


 全部ある。


 全部使える。


 問題はない。


 それでも。


 順番に意識を切り替えた瞬間。


 ほんのわずかに。


 また何かが引っかかった気がした。


「……?」


「セイン?」


 ピエナが振り返る。


「何でもない」


 セインは追いついた。


 気のせいかもしれない。


 昨日の疲れかもしれない。


 今はまだ、それ以上考える理由もなかった。


 前ではクリスが、宿の看板を見上げていた。


「今日の宿、普通のベッドかな」


「普通じゃないベッドって何?」


「前の宿、ちょっと沈んだ」


「それは柔らかいって言うの」


「そうなんだ」


 ピエナがため息をつく。


「やっぱり戦ってない時は変だね」


「そう?」


「そう」


 戦いが終われば、いつものクリスに戻る。


 ただ三人とも、今日ひとつだけ改めて分かったことがあった。


 日常では少しずれている。


 けれど戦場に立った時だけは。


 クリスには、他の二人には見えていないものが見えているらしい。

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