第31話 静かにしろ、絶対にだ
森に入ってしばらくしたところで、セインは妙な切り株を見つけた。
「……これ、誰が切ったんだ?」
しゃがみ込み、断面へ指を滑らせる。
斧で何度も叩いた跡がない。
刃物を押し込んだような傷もない。
細い木とはいえ、まるで最初から二つに分かれていたかのように、断面が真っ平らだった。
ピエナも横から覗き込む。
「木こりじゃない?」
「だったらもう少し切り口が荒れるんじゃないか?」
「じゃあ剣?」
クリスが近くの木を見た。
「剣でも、こんな綺麗にはいかないと思う」
三人が辺りを見回す。
そこでようやく気づいた。
一本だけではない。
枝。
蔦。
草。
細い木。
森のあちこちが、妙に綺麗に切断されていた。
「何かいるな」
セインが立ち上がる。
「また?」
ピエナが言う。
「森って、何かいる場所だから」
クリスが言った。
「そういう意味じゃないよ」
三人は切断跡を辿った。
進むほど数が増えていく。
太い枝まで落ちていた。
どれも一撃。
セインの目が少し輝く。
「かなり切れるな」
「その顔やめて」
「何が?」
「新しいスキル見つけそうな時の顔」
「そんな顔あるのか?」
「ある」
「あるね」
クリスまで頷く。
「どんな顔だよ」
「欲しい物見つけた子供」
「してないだろ」
二人とも答えなかった。
少し先で、葉が揺れた。
三人が止まる。
茂みの向こうから現れたのは、大型のカマキリに似た魔物だった。
人間の胸ほどの高さ。
細長い胴体。
三角形の頭。
そして何より目立つのが、左右の巨大な鎌だった。
薄い。
長い。
いかにも切れそうだ。
「……強そう」
ピエナが小声で言う。
「これ切ったの、こいつかな」
クリスも剣へ手を伸ばした。
カマキリ型魔物が三人を見る。
三人も見る。
数秒。
何も起こらない。
「……襲ってこないな」
セインが一歩前へ出た。
カマキリ型魔物は、
びくっ。
と身体を震わせ、一歩後ろへ下がった。
三人が止まる。
さらにセインが半歩進む。
魔物が二歩下がった。
「……怖がってない?」
ピエナが言った。
「この見た目で?」
セインが首を傾げる。
「臆病なんだね」
クリスが感心したように言った。
「じゃあ刺激しなければ――」
パキッ。
クリスの足元で枝が折れた。
魔物の身体が跳ね上がる。
両鎌が淡く光った。
「え」
ザシュッ。
ザシュザシュザシュッ!
三人は反射的に伏せた。
頭上を枝と葉が飛んでいく。
さっきまで立っていた低木が、まとめて輪切りになった。
静寂。
クリスが、自分の足元を見る。
「……枝だったね」
ピエナも見る。
「枝だったね」
セインは真っ二つになった木を見る。
「枝でこれか」
当のカマキリ型魔物は、鎌を胸元へ抱えるようにして周囲をきょろきょろ見ていた。
自分で森を切り刻んだ本人が、一番怯えている。
「音だな」
セインが囁く。
「たぶん」
「もう一回確かめる?」
クリスが訊いた。
「やめてあげようよ」
ピエナが即座に止めた。
三人は少し距離を取った。
普通の会話程度なら大丈夫らしい。
だが急な大きな音がすると、魔物は反射的に鎌を振り回す。
しかもその時だけ、鎌の切れ味が明らかに上がっている。
セインが小声で言った。
「近づいて触ってみる」
ピエナが振り返る。
「やっぱり?」
「あの切れ味、たぶんスキルだ」
「そうかもしれないけど、あれに触るの?」
「触らないと《簒奪》できない」
「枝一本で森切るやつに?」
「静かに行けばいい」
「その自信どこから来るの?」
セインはゆっくり歩き始めた。
魔物も同じだけ下がる。
セインが一歩。
魔物が一歩。
一歩。
一歩。
「……永遠に触れなくない?」
ピエナが囁く。
「後ろから回れば?」
クリスが囁き返す。
「後ろから突然出てきたら一番びっくりするでしょ」
「じゃあ正面から堂々と?」
「今やってるよ」
セインは立ち止まった。
魔物も止まる。
「目を合わせない方がいいかも」
クリスが言う。
「なるほど」
セインは横を向いた。
そしてそのまま、カニ歩きで近づき始めた。
ピエナの口元が引きつる。
「……それ絶対余計怖いって」
「目は合ってないぞ」
「そういう問題じゃ――」
ピエナは途中で言葉を止めた。
声を上げてはいけない。
今、一番大事なのはそれだった。
どうにか距離を詰める。
あと少し。
そこでピエナが小声で言った。
「私が前に出ようか?」
「何するんだ?」
「気を引く」
「《爆裂》は?」
「使わないって!」
「絶対だぞ」
「分かってる!」
最後だけ少し声が大きくなった。
魔物がびくりとする。
三人もびくりとする。
ピエナは慌てて口を押さえた。
「……ごめん」
今度は囁いた。
そのまま慎重に前へ出る。
真剣な顔。
真剣な目。
いざとなればすぐ動けるように足を開き、カマキリ型魔物と向かい合う。
後ろから見ていたセインとクリスが、同時に固まった。
ピエナのスカートの後ろ側が、腰のベルトへ引っかかっていた。
そのせいで、下に履いていた安全用のショートパンツが丸見えになっている。
しかも。
大きなクマの顔が描いてあった。
セインが顔を逸らした。
クリスも顔を逸らした。
二人とも肩が震えている。
ピエナだけが、何も知らない。
「……いくよ」
セインの肩がさらに震えた。
クリスが口元を押さえた。
ピエナが振り返る。
「何?」
「いや」
「何よ」
セインが必死に表情を戻す。
「ピエナ」
「何?」
「その……後ろ」
「後ろ?」
「スカート」
「スカート?」
「上がってる」
ピエナが背後へ手を回した。
止まった。
表情も止まった。
森に、非常に静かな時間が流れた。
ピエナがゆっくりスカートを直す。
「…………見た?」
声が低い。
セインは少し迷った。
「見えた」
「僕も」
クリスは素直だった。
「……クマも?」
セインとクリスが黙る。
それが答えだった。
「忘れて」
「努力する」
「僕はちょっと難しいかも」
ピエナの眉が跳ねた。
「ちょっと!! なんで早く言わないのよ!!」
森に響いた。
三人が固まる。
「あ」
カマキリ型魔物が跳ねる。
両鎌が光った。
「伏せろ!」
ザシュザシュザシュザシュッ!
大量の枝が宙を舞った。
「もう! こいつもタイミング悪い!」
「声! ピエナ、声!」
「誰のせいよ!」
ザシュッ!
「だから声!」
「そもそも笑ってたでしょ!」
「笑ってない!」
「肩震えてた!」
「寒かった!」
「こんな暖かい森で!?」
ザシュザシュッ!
カマキリ型魔物はもはや戦っているのか怯えているのか分からない。
たぶん後者だった。
三人は地面へ伏せた。
「……ピエナ」
「何」
「一回落ち着こう」
「私は落ち着いてる」
「怒ってるだろ」
「怒ってない」
「怒ってるね」
クリスが言った。
ピエナが睨む。
「クリス」
「なに?」
「後で話あるから」
「僕?」
「二人とも」
セインとクリスが目を合わせた。
「……まだ怒ってるな」
「聞こえてる!」
カマキリ型魔物。
「!!!!」
「声!」
再び三人が伏せた。
しばらくして。
ようやく森に静けさが戻った。
ピエナは腕を組んでいる。
まだ完全に怒っていた。
「俺、行ってくる」
セインが言った。
「どうぞ」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「怒ってるじゃん」
「早く行って!」
カマキリ型魔物がびくっとした。
「……小声で」
ピエナは無言でセインの背中を軽く蹴った。
セインは再び近づく。
今度は余計なことをしない。
正面から、ゆっくり。
魔物は後退する。
その後ろには大きな木。
逃げ場を失ったことに気づいた魔物の鎌が持ち上がる。
セインは止まった。
「大丈夫。何もしない」
小さな声。
右手を伸ばす。
少しずつ。
少しずつ。
魔物の鎌が震える。
セインの指先が、その胴へ触れた。
左手を胸へ。
《簒奪》。
核の奥へ、新しい構造が流れ込んでくる。
鋭さ。
縁。
先端。
そこへ魔素を集中させる感覚。
セインはすぐ手を離した。
魔物は勢いよく木陰へ逃げ込んだ。
「取れた?」
クリスが訊く。
「ああ」
ピエナも興味はあるらしく、腕を組んだまま近づいてきた。
ただし表情はまだ不機嫌だった。
セインは落ちていた細い枝を拾う。
先端へ意識を向ける。
「《鋭化》」
枝先の見た目はほとんど変わらない。
だが、近くの葉へ当てると、すっと切れた。
「おお」
クリスが感心する。
「切れるね」
「鎌じゃなくても使えるみたいだ」
セインは今度は小石の縁へ使う。
こちらも鋭くなる。
「触れてるものなら使えるのかな」
ピエナが言う。
「たぶん。けど先とか縁の方がやりやすい」
「へえ」
「……機嫌直った?」
「直ってない」
「そうか」
即答だった。
セインは《粘糸》を伸ばした。
「糸にも使えるかな」
木と木の間へ一本張る。
まず《粘糸》を維持。
次に、別の感覚へ意識を向ける。
《鋭化》。
「……お」
糸の感触が変わる。
クリスが細い枝をそっと触れさせた。
すっ。
枝の表面へ細い切れ込みが入る。
「切れた」
「使えそうだな」
セインが笑う。
だが、すぐに眉を寄せた。
「……でも面倒だ」
「何が?」
「《粘糸》を維持しながら、《鋭化》も使わないといけない」
糸を出し続ける感覚。
鋭さを乗せ続ける感覚。
別々だった。
少し《鋭化》へ集中しすぎれば、糸の張りが緩む。
逆に糸へ意識を戻せば、鋭さが落ちる。
「一つになったわけじゃないんだね」
クリスが言った。
「ああ。別々のスキルを同時に使ってるだけだ」
セインは胸の奥へ意識を向ける。
《粘糸》。
《鋭化》。
《振動》。
どれも別々に核の中へ収まっている。
新しい能力を手に入れたからといって、以前のものと勝手に混ざるわけではない。
「じゃあ三つ同時なら?」
クリスが言った。
ピエナがすぐ振り返った。
「やめなさい」
「まだ何もしてないぞ」
「顔で分かる」
「どんな顔だよ」
「さっきの子供みたいな顔」
セインは少し考えた。
「でも《振動》まで乗せたら――」
「やめなさい」
「ちょっとだけ」
「やめなさい」
「小さく」
「爆裂の時に私がそれ言ったら止めたよね?」
「……止めたな」
「じゃあやめなさい」
正論だった。
セインは数秒黙った。
そして。
「でも気になる」
「気になるじゃない!」
カマキリ型魔物。
「!!!!」
ザシュッ!
三人が伏せる。
ピエナの額に青筋が浮かんだ。
「……今日、私ずっとこうなんだけど」
「声出してるからだろ」
「誰のせいで声出してると思ってるの!?」
ザシュザシュッ!
「だから声!」
数分後。
カマキリ型魔物からかなり離れた場所まで移動して、セインはようやく実験を再開した。
「ここなら大丈夫だろ」
「ほんとに?」
「たぶん」
「その“たぶん”嫌い」
セインは《粘糸》を張る。
《鋭化》を重ねる。
さらに《振動》。
三つ目へ意識を向けた瞬間、頭の中が一気に忙しくなった。
糸を保つ。
鋭さを保つ。
振動を調整する。
「……待て」
糸が震える。
思った以上に大きくぶれた。
「セイン?」
「ちょっと難し――」
鋭化した糸が大きく跳ねた。
「うわっ!」
三人が一斉にのけぞる。
セインが慌てて《振動》を止めた。
糸が静止する。
沈黙。
ピエナがゆっくりセインを見る。
「……ね?」
「はい」
「私、やめなさいって言ったよね?」
「言ってた」
「三回くらい言ったよね?」
「言ってたな」
「で?」
「三つ同時は、今は無理だ」
「それ、やる前に分かんなかった?」
「やってみないと分からないだろ」
「分かるわよ!」
「ピエナ、声」
「もうカマキリいないでしょ!」
その通りだった。
ピエナはもう遠慮なく怒っていい場所まで来ていた。
「そもそも今日は何なのよ! 森には切られかけるし、クマは見られるし、二人は笑うし、最後はセインの糸で切られかけるし!」
「笑ってない」
「まだ言う!?」
「耐えてただけだよ」
クリスが補足した。
「もっと悪い!」
「なんで?」
「笑いたかったってことでしょ!」
「まあ」
「クリス!」
クリスが少し後ろへ下がる。
セインも一歩下がった。
ピエナは二人を睨んだ。
「いい? 次から何か変なことになってたら、一秒以内に言って」
「一秒?」
「一秒」
「〇・五秒くらいの方が――」
「クリス」
「うん」
「走って」
「なんで?」
「いいから走って!」
クリスが走り出した。
ピエナが追う。
「待って、僕はちゃんと教えたよ!」
「遅いの!」
「セインの方が先に気づいてた!」
「クリス!?」
「仲間を売るな!」
セインまで走る羽目になった。
三人の声が森の中へ遠ざかっていく。
セインは新しい《鋭化》を手に入れた。
《粘糸》と組み合わせれば、これまでなかった攻撃力を持たせられる。
だが、二つはまだ別々のスキルだった。
三つ重ねれば、さらに扱いは難しくなる。
強くなった。
使いやすくなったわけではない。
そしてこの日。
ピエナの機嫌も、最後まで直らなかった。
森の奥では、何かの声に驚いたカマキリ型魔物が、また一本だけ木を綺麗に切り倒していた。
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