第2話 勇者、初戦闘
「……魔王って、どこにいるんだ?」
村を出ておよそ一時間。
勇者セインの旅は、早くも重大な問題に直面していた。
目的地が分からない。
王国に選ばれた勇者より先に魔王を倒し、自分こそが本物だと証明する。そこまでは完璧だった。
問題は、その魔王がどこにいるのかを知らないことだった。
「魔王といえば、魔王城だよな」
セインは街道脇へ荷物を下ろし、家から持ってきた地図を広げた。
「魔王城……魔王城……」
指で地図をなぞってみる。
ない。
「……載ってないのか」
当然である。
「不親切だな」
地図に罪はなかった。
しばらく地図を眺めていたセインだったが、ふと三日前に出発したという王国の勇者を思い出した。
正式に選ばれた勇者なのだから、自分より詳しい情報を持っているはずだ。
「だったら、勇者を追えばいいのか」
王国の勇者を追う。
追いつく。
追い越す。
そのまま先に魔王を倒す。
「よし」
簡単だった。
少なくとも、セインの中では。
幸い、この街道を進めば半日ほどで町へ着く。旅人の多い町なので、王国の勇者が通っていれば何か情報も残っているだろう。
「まずは町だな」
セインは地図を畳んで荷物へ戻し、再び歩き始めた。
魔王の居場所は分からない。
王国の勇者の居場所も分からない。
それでも、さっきより一歩前進した気がした。
◇
しばらく歩いたところで、セインは腹が減ってきた。
袋を開けると、パンが三つと干し肉、水筒、財布、着替えが入っている。
「……これで足りるのか?」
魔王討伐へ向かう荷物として十分なのかは、本人にも分からない。
「まあ、町で買えばいいか」
深く考えるのをやめ、パンを一つ取り出した。
街道の左右には森が続いている。
この辺りまではセインにも多少馴染みがあり、子供の頃には友人達と遊びに来たこともあった。ただ、一人でここまで来ることはほとんどなかった。
パンをかじりながら歩いていると、少しずつ実感が湧いてくる。
本当に旅に出たのだ。
これから魔物と戦い、困っている人を助け、王国の勇者を追い越して、最後には魔王を倒す。
そうすれば、みんなにも分かるはずだ。
自分こそ、本物の勇者なのだと。
「……ん?」
街道の先に何かいる。
セインは足を止めた。
四本の脚を持った低い身体。大きさは犬ほどで、全身を黒っぽい毛に覆われている。その口からは、身体に対して妙に大きな牙が覗いていた。
セインはパンを持ったまま、その生き物を見つめた。
向こうもこちらを見ている。
「……魔物だ」
初めて見た。
村の近くにも、ごく稀に魔物が現れることはあったが、そのたびに大人や冒険者が追い払っていたため、セイン自身が戦った経験は一度もない。
魔物が低く唸った。
セインはパンを袋へ戻し、腰の短剣を抜く。
「そういえば俺……魔物と戦ったことないな」
魔王を倒しに向かっている男が、最初の魔物を前にして気づくことではなかった。
「まあ、最初は誰でも初めてだろ」
それ自体は正しい。
セインが短剣を構えた直後、魔物が地面を蹴った。
「速っ!」
慌てて横へ飛ぶと、黒い影がすぐ脇を駆け抜けていく。
セインは急いで振り返った。
「思ってたのと違うな……」
魔物というものは正面から襲ってきて、それを勇者が剣で迎え撃つものだと思っていた。
少なくとも、セインの想像ではそうだった。
残念ながら、現実の魔物はセインの想像に合わせてくれない。
魔物がすぐに反転し、もう一度駆けてくる。
「今度こそ!」
セインは距離を測りながら短剣を振った。
刃は空を切った。
気づけば、魔物はもう横を通り過ぎている。
「……速くない?」
誰に聞いているのか。
当然、魔物から答えは返ってこない。
再び魔物がこちらを向いた。
セインも構え直す。
今度は動きをよく見る。
飛び込んできた瞬間に合わせればいい。
そう考えていたところで、魔物が突然口を開いた。
「ん?」
白い何かが飛んでくる。
「うわっ!」
反射的に顔を腕で庇った。
べちゃり、と何かが張り付いた。
「……なんだこれ」
腕に絡みついていたのは、細い糸だった。
試しに腕を引くと、糸の反対側が地面へ強く張り付いている。
「取れない……って、強っ!」
見た目に反して、かなり丈夫だ。
力を込めても簡単には切れない。
その間に、魔物がもう一度口を開いた。
「また!?」
二本目の糸が飛び、今度は脚へ絡みつく。
セインが踏み出そうとした瞬間、脚だけがその場へ引っかかり、身体だけが前へ進んだ。
「うおっ!」
派手に転んだ。
短剣が手から離れ、街道の上を滑っていく。
顔を上げると、魔物の牙が見えた。
「まずい!」
こちらへ走ってくる。
セインは身体を転がし、どうにか牙を避けた。
「本当に待てって!」
当然、待ってはくれない。
必死に腕へ絡んだ糸を剥がそうとするが、なかなか取れない。脚にも絡んでいるせいで、自由に動くことすら難しかった。
その時、セインは改めて糸を見た。
「……これ」
妙に丈夫で、しかも地面へ張り付くほど粘ついている。
魔物はこれを自在に飛ばしていた。
「スキルか?」
そう考えた瞬間、セインの動きが止まった。
自分の右手を見る。
魔物を見る。
そして、もう一度右手を見る。
「……奪えるんじゃないか?」
セインには、生まれつき一つの固有スキルがあった。
《簒奪》。
他者のスキルを、自分のものにする力。
使い方そのものは知っている。
右手で対象へ触れ、左手を自分の胸へ当てる。
それだけで、相手のスキルを自分へ取り込める。
ただし、十六年間一度も使ったことはなかった。
理由は単純だった。
もし他人のスキルを奪ったら、その人のスキルはどうなるのか。
消えるのか。
後から戻るのか。
そもそも本当に奪えるのか。
何も分からない。
試すには、あまりにも相手への迷惑が大きすぎた。
それ以前に、幼い頃から祖母にも言われている。
『人のものを勝手に取っちゃ駄目よ』
正しい。
非常に正しい。
だが、セインは目の前の魔物を見た。
自分を襲っている。
牙も向けてきた。
糸まで飛ばしてきた。
「……こいつならいいか」
たぶんいい。
勇者としても、たぶん問題ない。
「よし」
立ち上がろうとしたところで、脚に絡んだ糸に引かれ、また地面へ倒れた。
「まずこれ邪魔だな!」
勇者として初めて《簒奪》を使う以前に、立てなかった。
魔物が再び走ってくる。
短剣は遠い。
「くそっ!」
セインは絡んだ糸を力任せに引いた。
地面へ張り付いていた部分が、一本だけ剥がれる。
「いける!」
もう一度引くと、どうにか動ける程度の余裕ができた。
そこへ魔物が飛びかかってくる。
セインは逃げず、右手を伸ばした。
触れればいい。
そう思っていた。
牙が目の前を通る。
「怖っ!」
反射的に手を引いてしまった。
魔物はそのまま走り抜ける。
「……簡単じゃないな」
当たり前だった。
短剣なら刃先が届けばいい。
しかし《簒奪》は、右手で相手へ直接触れなければならない。
しかも、それだけではない。
「右手で触って……左手は胸」
実際に左手を胸へ当ててみる。
これでは短剣も持てない。
「これ、戦いながら使うものじゃなくないか?」
十六年目にして、初めて自分のスキルの欠点を知った。
魔物が再びこちらへ向きを変える。
セインは左手を胸へ当てたまま、腰を落とした。
「でも、やるしかないか」
魔物が走る。
今度は逃げなかった。
牙を見る。
脚を見る。
動きを見る。
普通に怖い。
これまで村で見てきた冒険者達は、こんなものを相手にしていたのか。
魔物が跳んだ。
セインは身体を少しだけずらして牙を避け、そのすれ違いざまに右手を伸ばした。
指先が黒い毛へ触れる。
「《簒奪》!」
右手で魔物の身体を掴み、左手を胸へ当てる。
その瞬間、今まで感じたことのない感覚が右手から流れ込んできた。
「――っ!」
魔素そのものを吸い取っているわけではない。
もっと奇妙だった。
魔素がどう流れ、どういう形を取り、何へ変わっていくのか。その道筋のようなものが、自分の中へ刻まれていく。
知らなかったはずのものが、自分の中に増えていく。
「なんだ、これ……!」
だが、じっくり確かめている余裕はなかった。
魔物が激しく暴れ、セインの右手が離れる。
「うわっ!」
そのまま地面へ転がった。
魔物も少し離れた場所でこちらを警戒している。
セインは胸を押さえながら、自分の内側へ意識を向けた。
何かが違う。
確かに、先ほどまで存在しなかったものがある。
「……できた?」
自分の手を見る。
次に魔物を見る。
「奪った……?」
十六年間、一度も使わなかった《簒奪》。
初めて成功した。
思わず笑みが漏れた。
「できるじゃん!」
勇者としての旅で初めての戦闘。
そこで早速、新しいスキルまで手に入れた。
ここからだ。
この力があれば――。
魔物が口を開いた。
「……ん?」
白い糸が飛んできた。
べちゃり。
セインの顔へ張り付いた。
「…………」
セインはゆっくり糸を剥がした。
魔物を見る。
自分を見る。
もう一度、魔物を見る。
「……お前、なんでまだ使えるんだ?」
当然、返事はない。
「俺、奪ったよな?」
魔物は知らない。
「《簒奪》だぞ?」
魔物に確認しても仕方がなかった。
セインはもう一度、自分の中へ意識を向ける。
確かにある。
さっきまでなかった、新しい何か。
つまり《簒奪》自体は成功している。
なのに、相手からスキルは消えていない。
「……じゃあ、奪ってない?」
十六年間信じてきた自分の固有スキルの名前が、一気に怪しくなった。
だが、セインは数秒考えただけで結論を出した。
「まあいいか。俺も使えれば問題ない」
切り替えは早かった。
セインは右手を前へ出し、自分の中へ増えたばかりの力へ意識を向ける。
さっき魔物が使っていた、粘つく糸。
それを出せばいい。
「……出ろ」
何も起きない。
「…………」
もう一度、意識する。
「出ろ」
何も出ない。
「……糸」
やはり出ない。
その間にも魔物が少しずつ近づいてくる。
「ちょっと待て」
セインは自分の右手を見た。
「なんで出ない?」
スキルはある。
魔素もある。
それなのに、どうすれば糸になるのかが分からない。
セインは魔物を見る。
「お前はどうやって……」
ちょうど魔物が口を開き、また白い糸を放った。
セインは慌てて避ける。
「……口?」
魔物の口元を見る。
次に自分の右手を見る。
「手からじゃないのか?」
少し考えたあと、セインは魔物と同じように大きく口を開いた。
胸いっぱいに息を吸い込み、頬まで膨らませる。
「ふっ!」
何も出なかった。
「…………」
今度は唇を尖らせ、顔が赤くなるほど力を込める。
「ふぬぬぬぬ……!」
やはり何も出ない。
魔物は少し離れた場所から、そんなセインをじっと見ていた。
「口じゃないのか?」
セインは本気で考える。
糸。
糸を出す生き物。
「……蜘蛛」
そこで、ふと嫌な可能性に気づいた。
セインは魔物へ背を向けた。
両脚を少し開き、膝を曲げ、腰を落とす。
そして。
お尻だけを魔物へ突き出した。
「…………」
魔物も止まった。
セインはその格好のまま、自分の中にあるスキルへ全力で意識を集中させる。
「来い……!」
何も起こらない。
「ここだろ……蜘蛛ならここだろ……!」
さらに力を込める。
拳を握り、肩まで震わせながら、お尻を突き出したまま全力で踏ん張った。
「出ろおおおお……!」
出なかった。
ただ、街道の真ん中で十六歳の少年が魔物へ尻を向け、全身に力を込めているだけだった。
魔物が一歩下がった。
「なんで引くんだよ!」
セインはすぐに向き直った。
「違う。まだ候補はある」
蜘蛛が駄目なら、もっと広く考えればいい。
「液体みたいに出るなら……目?」
今度は両手の指でまぶたを限界まで開き、魔物を真正面から凝視した。
目が乾くほど大きく見開き、白目がかなり見える状態で顔だけを前へ突き出す。
「…………出ろ」
何も出ない。
さらに目を開く。
「出ろ」
出ない。
魔物がまた一歩下がった。
「だからなんで引くんだよ!」
セインは涙が滲み始めた目を擦った。
「じゃあ鼻か……?」
今度は片方の鼻を指で押さえ、もう片方の鼻の穴を魔物へ向ける。
大きく息を吸う。
「ふんっ!」
鼻息だけが出た。
「違うな」
反対側も試す。
「ふんっ!」
やはり鼻息しか出ない。
「両方か?」
セインは少し顎を上げ、魔物へ両方の鼻の穴を向けた。
「ふんぬっ!」
何も起きない。
さすがに魔物も困ったのか、首を傾げた。
「お前が首傾げるな。俺も分からないんだから」
それでもセインは諦めない。
「耳……?」
片耳を魔物へ向け、首を思い切り傾ける。
「出ろ」
出ない。
反対側も試す。
「こっちは?」
やはり出ない。
その瞬間、魔物が口を開いた。
「あ」
白い糸が飛んできて、耳を向けたままのセインの肩へべちゃりと張り付く。
「ちょっと待て!」
二本目が腕へ。
「今、かなり重要な検証中なんだぞ!」
三本目が腰へ飛んでくる。
「お前も協力しろ!」
協力する気はないらしい。
避けようとしたセインの脚へさらに糸が絡み、身体の自由が少しずつ奪われていく。
それでもセインは、まだ試行錯誤をやめなかった。
「待てよ。出る場所じゃなくて、姿勢かもしれない」
魔物が糸を吐く時の姿を思い出し、セインは街道の真ん中で四つん這いになった。
両手を地面につき、背中を低くする。
「こうか?」
魔物が黙って見ている。
「……かなり近づいてる気がする」
近づいているのは魔物との見た目だけだった。
四つん這いのまま、まず口を大きく開く。
「ふっ!」
出ない。
次に尻を高く上げる。
「こっちか!」
出ない。
その姿勢のまま片目を限界まで見開く。
「目!」
出ない。
最後に鼻を鳴らす。
「鼻!」
やっぱり出ない。
魔物がまた糸を吐いた。
「待て!」
白い糸が背中へ張り付き、続けて腕、肩、脚、腹にも次々と絡んでいく。
セインが真面目に検証を続ければ続けるほど、その身体には魔物の糸が増えていった。
ようやく立ち上がろうとした頃には、腕は身体へ半分固定され、脚にも何重もの糸が巻きつき、首から下がほとんど真っ白になっていた。
「……動きづらいな」
それでも無理やり一歩進もうとする。
右脚を出せば腰の糸が張り、左脚を出せば腕が引っ張られる。
結局、身体をほとんど曲げられないまま、その場で小さく跳ねることしかできなかった。
魔物が目の前で見ている。
セインは自分の身体を見下ろした。
全身に白い糸が何重にも巻きつき、もはや魔物よりよほど糸に詳しそうな見た目になっている。
「…………」
もう一度、魔物を見る。
「俺の方が蜘蛛っぽくなってないか?」
返事の代わりに、また一本糸が飛んできた。
「やめろ! 完成させるな!」
顔の横へ張り付いた糸をどうにか避けながら、セインは必死に身体を捻った。
それでも、ここまで試して一つだけ分かったことがある。
口でもない。
尻でもない。
目でもない。
鼻でも耳でもない。
姿勢を真似しても駄目だった。
「……じゃあ」
セインは自分の内側にある新しいスキルへ、改めて意識を向けた。
魔物の外側だけを真似しても発動しない。
ならば重要なのは、もっと別の部分なのかもしれない。
魔素がどう流れているのか。
どうやって糸へ変わっているのか。
そこまで分からなければ、使えない。
「……持ってるだけじゃ駄目なのか」
その瞬間、魔物が低く身を沈めた。
「あ」
セインは自分の姿を見る。
全身ほぼ糸だらけ。
短剣は遠い。
両手もまともに動かない。
そして魔物は、明らかに突っ込んでくる気でいる。
「……今日はここまでにしよう」
逃げようとした。
一歩目で糸に引っ張られ、その場で転んだ。
「まずこれ剥がさないと逃げられない!」
街道に転がりながら、セインは必死に身体を捻った。
魔王を倒すため村を飛び出した勇者セインは、旅立って数時間で初めて魔物と戦い、初めて《簒奪》を使った。
そして分かったことは二つある。
《簒奪》を使っても、相手からスキルはなくならない。
そしてもう一つ。
「だから糸ってどうやって出すんだよ!」
能力を手に入れても、使い方までは手に入らないらしい。
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