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第1話 勇者は俺だ

 その村には、古くから勇者の伝説が残っていた。


 かつて魔王が現れた時、一人の勇者がこの地を訪れたという。


 勇者は仲間とともに魔王へと挑み、長い戦いの末にこれを打ち倒した。


 村の中央にある広場には、今もその勇者を称える紋章が刻まれている。


 そして、こんな言い伝えがあった。


『再び魔王が現れし時、真なる勇者の前で紋章は光を放つ』


 子供なら一度は聞かされる、よくある昔話だった。


 だから誰も、本当に光るとは思っていなかった。


 ――セイン以外は。


 その日は、朝まで雨が降っていた。


 昼前にはすっかり晴れ、濡れた石畳に強い日差しが照りつけている。


 十三歳のセインは、そんな広場を一人で歩いていた。


 特に目的はない。


 腹が減ったので家に帰る途中だった。


 その程度である。


 広場の中央まで来たところで、セインは足を止めた。


「ん?」


 足元に、見慣れた紋章がある。


 何百年も人に踏まれ続けたせいで、ところどころ角が丸くなっていた。


 セインも何度となく、その上を歩いたことがある。


 何も珍しくない。


 そのはずだった。


 雲が動いた。


 太陽が顔を出す。


 光が差し込んだ。


 雨水の残った石畳が日差しを跳ね返し――


 紋章が、光った。


「…………」


 セインは動かなかった。


 正確には、動けなかった。


 ゆっくり足元を見る。


 紋章。


 自分。


 もう一度、紋章。


「…………光った」


 確かに光った。


 その瞬間、ずっと昔の記憶が蘇った。


 まだセインが幼かった頃。


 広場で遊んでいた子供が転んだ。


 膝を擦りむいて泣いているその子に、セインは手を差し出した。


『大丈夫?』


 それを見ていた祖母が、嬉しそうに笑った。


『セインは本当に優しい子ね』


 祖母はセインの頭を撫でた。


『まるで勇者様のようだわ』


 幼いセインは目を輝かせた。


『俺、勇者?』


『ふふっ。そうかもしれないわねぇ』


『勇者って強いんだよね?』


『そうね。でも、強いだけじゃ勇者様とは呼べないわ』


『じゃあ、何する人?』


 祖母は少し考えてから答えた。


『困っている人を助けてあげられる人、かしらね』


『じゃあ俺、勇者になる』


『まあ』


 祖母は楽しそうに笑った。


『それなら、困っている人を放っておいちゃ駄目よ』


『うん!』


 祖母としては、孫の優しさを褒めただけだった。


 ごく普通の祖母である。


 しかし残念ながら、孫はその言葉を忘れなかった。


「…………」


 セインは足元の紋章を見つめた。


 幼い頃、ばあちゃんに勇者みたいだと言われた。


 そして今。


 伝説の紋章が、自分の前で光った。


 一つなら偶然かもしれない。


 二つある。


「……やっぱり」


 セインは拳を握った。


「俺、勇者だったんだ」


 十三歳。


 少年セイン。


 この日、自らの使命を知った。


 なお、太陽は何も知らない。


 三年後。


「魔王が現れたらしいぞ!」


 十六歳になったセインは、村の食堂で昼飯を食べていた。


 その手が止まった。


「……来たか」


 小さく呟く。


 驚きはなかった。


 むしろ、どこか納得していた。


 いつか来ると思っていた。


 勇者がいるのだ。


 ならば当然、倒されるべき魔王も現れる。


 あの日から三年間。


 特に何も起きなかった。


 畑仕事を手伝った。


 屋根を直した。


 迷子の犬を探した。


 腰を痛めた近所の爺さんの代わりに荷物を運んだ。


 魔王は一向に現れなかった。


 勇者とは、思っていたより暇な職業だった。


 だが、ついに来た。


 セインは静かにパンを置いた。


 十六年間生きてきて、ようやく自分の出番が来たのだ。


「それで、魔王はどこに――」


「王国が勇者を選んだらしい!」


「…………」


 セインの動きが止まった。


 食堂が沸いた。


「本当か!」


「これで安心だ!」


「どんな人なんだ?」


「王国中から候補を集めて選んだらしいぞ!」


「もう魔王討伐に出発したって話だ!」


 セインだけが立ったまま動かなかった。


 やがて、ゆっくり椅子に座る。


 向かいに座っていた幼馴染みがパンをかじった。


「どうした?」


「ちょっと待ってくれ」


「何を?」


「今、勇者って言ったか?」


「言ったな」


「誰を?」


「誰って?」


「誰が勇者なんだ?」


「知らないよ。王都の若者らしいぞ」


「俺じゃなくて?」


「なんでお前なんだよ」


「俺が勇者だからだよ」


「初めて聞いたよ」


 セインは眉を寄せた。


 おかしい。


 どう考えてもおかしい。


「勇者を選ぶなら、俺を呼ばないと駄目だろ」


「なんで?」


「俺が勇者だから」


「今それを聞いてるんだよ」


「王国は俺のこと知らないのか?」


「たぶん知らない」


「そうか……」


 セインは腕を組んだ。


 少し考える。


 そして納得した。


「なら、しょうがないな」


「何が?」


「王国も知らなかったんだ」


「お前のことを?」


「ああ」


「それはそうだろうな」


「なら、その選ばれた奴も悪くない」


「何の話だ?」


「そいつも王国から『お前が勇者だ』って言われたんだろ?」


「まあ、そうなんじゃないか?」


「だったら自分が勇者だと思うよな」


「思うだろうな」


「かわいそうに」


「なんでだよ」


 セインはまだ見ぬ男に、少しだけ同情した。


 本人に罪はない。


 王国から勇者だと言われれば、誰だって信じるだろう。


 間違えたのは王国である。


「それで、その勇者は?」


「もう出発したって」


「いつ?」


「三日前」


「…………三日?」


「ああ」


 セインの顔つきが変わった。


「もし、そいつが魔王を倒したらどうなる?」


「そりゃ英雄だろ」


「勇者として?」


「勇者なんだからな」


「…………」


 それはまずい。


 非常にまずい。


 このままでは王国が間違えたまま、すべてが終わってしまう。


 セインは考えた。


 どうすれば、自分こそが本物の勇者だと証明できる?


 王都へ行って訴えるか。


 いや。


『俺は勇者です』


『証拠は?』


『ばあちゃんに言われました』


 弱い。


 セインにも、それくらいは分かった。


 なら、紋章の話をするか。


『俺が通った時、伝説の紋章が光りました』


 こちらは強い。


 かなり強い。


 だが、実際に見た者はいない。


 ならば必要なのは、誰にも文句を言わせない決定的な証拠だ。


「…………」


 ある。


 一つだけ。


「魔王を倒せばいいのか」


「ん?」


「俺が先に魔王を倒せばいい」


 幼馴染みの手が止まった。


「何の話?」


「どっちが本物の勇者か」


「そんな話してたの?」


「本物の勇者が魔王を倒す。当然だろ?」


「まあ……勇者はそのために出発したんだろうけど」


「なら俺が先に倒せば、俺が本物だ」


「…………」


 幼馴染みはしばらく考えた。


「その勝負、向こうは知ってるのか?」


「知らない」


「勝手に始めるなよ」


 セインは立ち上がった。


「三日か」


「おい」


「急げば追いつける」


「待て待て」


「何だ?」


「本気なのか?」


「当たり前だろ」


 セインは不思議そうな顔をした。


「俺、勇者だぞ」


「だから、そこから分からないんだよ」


 セインは代金を机に置いた。


 そして食堂を飛び出した。


 家に着くなり、セインは自分の部屋へ駆け込んだ。


 袋を引っ張り出す。


 着替え。


 水筒。


 保存食。


 財布。


 短剣。


 何が必要なのかよく分からない。


 とりあえず使えそうなものを片っ端から詰めた。


「三日……」


 相手は三日前に出発している。


 一刻も無駄にはできない。


 袋を背負う。


 階段を駆け下りる。


 台所から祖母が顔を出した。


「あら、セイン。そんなに慌ててどうしたの?」


「ばあちゃん!」


「なあに?」


「ちょっと出てくる!」


「あら、そう。夕飯までには――」


「行ってきます!」


 バタン。


「…………」


 祖母は閉まった扉を見つめた。


「元気ねぇ」


 セインは走った。


 村の門を抜ける。


 街道へ出る。


 三日差。


 追いつかなければならない。


 いや。


 追い越さなければならない。


 王国に選ばれた勇者より先に魔王を倒し、自分こそが本物だと証明する。


 セインにとって、それはあまりにも当然のことだった。


 こうして。


 王国にも知られず。


 村人にもほとんど知られず。


 祖母にすら事情を説明せず。


 勇者セインの魔王討伐が始まった。


 一時間後。


 セインは街道を歩いていた。


「…………」


 足が止まった。


 前を見る。


 道が続いている。


 後ろを見る。


 村はもう見えない。


 セインはしばらく考えた。


「…………魔王って」


 もう一度、前を見る。


「どこにいるんだ?」


 勇者セイン。


 出発から一時間。


 早くも旅が止まった。


 その頃。


 村の広場を、一人の老人が歩いていた。


 少し前まで降っていた雨は上がり、雲の切れ間から日が差す。


 濡れた石畳に光が反射した。


 勇者の紋章が輝く。


「おお、眩し」


 老人は目を細め、そのまま通り過ぎた。


 セインが三年間信じ続けた奇跡は、今日も元気に起きていた。

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