第16話 森の異変
次の町へ着いた、その日の昼。
セインたちは町務斡旋所にいた。
三人になってから、立ち寄る回数が妙に増えている。
「これ、ちょっと変じゃない?」
ピエナが一枚の依頼票を指差した。
内容は、街道沿いの森で発生している魔物被害の調査。
本来なら森の奥にいるはずの小型魔物が、ここ数日になって街道や畑の近くまで現れるようになったらしい。
農作物を荒らされたという報告。
荷車の前へ突然飛び出してきたという報告。
家畜小屋の近くまで逃げ込んできたという報告まである。
「討伐じゃないんだな」
セインが依頼票を読む。
「現時点では原因が不明のため、まず調査をお願いします」
受付の職員が説明する。
「特定の魔物が人里へ進出しているというより、複数種の魔物が同じ方向へ移動しているようなのです」
「複数種?」
「はい。普段なら縄張りの異なる魔物まで確認されています」
ピエナが眉を寄せる。
「それって、みんな森から出てきてるってこと?」
「そのようです。原因となる魔物などを発見した場合は、危険度を確認したうえで追い払い、あるいは討伐をお願いします。ただし、危険と判断した場合は無理をせず帰還してください」
クリスが依頼票を覗き込んだ。
「魔物が逃げてくることまで町務斡旋所で扱うんだね」
「街道も畑も町の生活に関係するからじゃない?」
ピエナが答える。
「魔物そのものより、逃げてきた結果が問題なんだと思う」
「ああ、なるほど。町の中に入ってきたら、もう森だけの問題じゃないのか」
「たぶんな」
セインが依頼票を取った。
場所も悪くない。
東へ進む途中にある森だった。
「これにしよう」
「また東だから?」
「東だから」
ピエナが笑う。
「最近それで全部通してない?」
「実際、前には進んでる」
「寄り道しながら?」
「前には進んでる」
そこだけは譲らなかった。
◇
町を出てしばらく。
街道沿いの森へ着いた。
一見すると、特に変わったところはない。
鳥の声。
風で揺れる葉。
木々の間から差し込む日差し。
「静かだね」
ピエナが森を見渡す。
「本当に魔物増えてるのかな」
「依頼ではこの辺から目撃が増えてる」
セインが地図をしまった。
「少し中を見るか」
三人が森へ入る。
数分もしないうちだった。
ガサガサッ!
右の茂みが激しく揺れる。
「来た!」
クリスがすぐに前へ出る。
ピエナも両手を構えた。
茂みから、小型の魔物が飛び出してくる。
四本脚。
灰色の毛。
鋭い前歯。
こちらに気づいた。
一瞬、目が合う。
セインが短剣に手をかける。
だが。
「ギィッ!」
魔物は方向を変えなかった。
三人のすぐ横を、全速力で走り抜けていく。
「……あれ?」
ピエナが構えたまま振り返った。
「襲ってこなかったね」
「というか」
クリスも後ろを見る。
「かなり必死じゃなかった?」
セインは魔物が出てきた茂みを見る。
「俺たちから逃げたんじゃない」
「じゃあ、何から?」
答えはなかった。
ただ。
今度は左側の茂みが揺れた。
「ギャアッ!」
別の魔物が飛び出す。
これも小型。
しかも先ほどとは違う種類だった。
三人を見ても止まらない。
そのまま森の外へ。
さらに奥から一匹。
その後ろから二匹。
「ちょっと待って」
ピエナの表情から笑みが消える。
「これ、本当に何かいるんじゃない?」
「ああ」
セインも周囲を見る。
逃げている。
しかも一種類ではない。
普段なら同じ場所にいないはずの魔物まで、揃って同じ方向へ走っている。
「奥だね」
クリスが森を見る。
「たぶん、あっちに原因がいる」
声は明るかったが、剣から手を離してはいない。
◇
三人はさらに森の奥へ進んだ。
行けば行くほど、異変は分かりやすくなった。
木の根元に残る大量の足跡。
折れた枝。
踏み荒らされた草。
そして。
妙に少ない魔物の気配。
「逃げた後みたい」
ピエナが呟く。
「うん」
クリスも辺りを見回す。
「さっきから全然いない」
その時。
上空で鳥が一斉に飛び立った。
バサバサバサッ!
「……何?」
ピエナが空を見る。
セインも止まる。
そして。
――ズン。
地面がわずかに揺れた。
三人が同時に黙った。
「今の」
ピエナが小さな声で言う。
「足音だと思う」
クリスが答える。
さっきまでとは違い、表情が引き締まっていた。
「かなり大きい」
――ズン。
また。
少し近い。
「大型魔物か」
セインが短剣を抜く。
ピエナも魔素を集め始める。
「小型が全部逃げるくらいだから、相当強いのかな」
「決めつけるのは早い。でも、警戒はする」
「俺、前行くね」
クリスが一歩出る。
「何か来たら、まず俺が動き見るから」
「頼む」
――ズン。
木々が揺れる。
大きな影。
「来る!」
クリスが剣を構えた。
枝を押し退けるようにして、大型の魔物が飛び出してきた。
「グオオオッ!」
「でかっ!」
ピエナが声を上げる。
クリスが踏み込もうとした。
だが。
大型魔物は三人を見るなり、目を見開いた。
そして。
「グオオオオオッ!」
そのまま横を走り抜けた。
「……」
三人は構えたまま、走り去る背中を見る。
木をなぎ倒しながら、必死に遠ざかっていく。
「今の」
ピエナがゆっくり口を開く。
「逃げてたよね?」
「逃げてた」
セインが答える。
「俺たちから?」
「違うと思う」
クリスは大型魔物が出てきた方向を見ていた。
「あれ、後ろばっかり気にしてた」
沈黙。
小型魔物が逃げる。
大型魔物まで逃げる。
では。
その奥にいるものは何だ。
「……もっとでかい?」
ピエナが聞く。
「分からない」
セインは答えながらも、少し声を落とした。
森が静かだった。
先ほどまで聞こえていた鳥の声すらない。
ガサッ。
三人が振り返る。
木の陰。
何かが動いた。
◇
最初に見えたのは。
牙だった。
「……牙」
ピエナが呟く。
太い。
長い。
獲物を噛み砕くためだけに存在しているような、ライオンを思わせる巨大な牙。
「でかいな」
クリスも剣を握り直す。
「噛まれたらまずそう」
「噛まれなければいい」
「それは任せて」
「頼もしいな」
次に、前脚が現れた。
木の幹へ掛かる。
鋭い。
湾曲した巨大な爪。
「鷲みたい」
ピエナが言う。
「牙だけじゃないのか」
セインは相手の姿を観察する。
さらに身体が見えてくる。
分厚い皮膚。
凹凸のある表面。
ワニを思わせる硬そうな肌。
「硬そうだね」
ピエナが魔素を集める。
「《爆裂》、強めにした方がいいかな」
「まだ撃つな。全部出てくるまで待とう」
「分かってる」
最後に。
木々の向こうから、大きな尾。
太く。
長く。
カンガルーのように発達している。
地面を支えられそうなほど立派だった。
セインが眉を寄せる。
「牙。爪。硬い皮膚。それにあの尾……」
「強そうなもの全部ついてない?」
ピエナが言う。
クリスも頷く。
「大型魔物まで逃げてたし、たぶんこいつだよね」
影が動く。
ついに。
その全身が姿を現した。
◇
「…………」
「…………」
「…………」
三人とも黙った。
牙は確かに立派だった。
ただし。
大きすぎて口から常にはみ出している。
頭を少し動かすだけで、牙同士がぶつかりそうだった。
鷲のような爪も鋭い。
ただし。
太い四肢との形がまったく合っていない。
歩くたびに、爪先が地面へ引っかかる。
ワニのような皮膚は硬そうだった。
ただし。
それを全身にまとった身体は、妙に重そうだった。
カンガルーのような尾も立派だった。
ただし。
長すぎた。
魔物が一歩進む。
尾が横の木にぶつかった。
バキッ!
「ギャッ!?」
魔物自身が驚いた。
勢いよく振り返る。
巨大な牙が枝に引っかかる。
「ギャギャッ!」
頭を振る。
今度は前脚の爪が地面に刺さった。
バランスを崩す。
ドスン。
「……」
ピエナが魔素を散らした。
「思ってたのと違う」
「俺も」
クリスも剣を少し下げる。
「強そうなところしかないのに、全部邪魔してない?」
「……そう見えるな」
セインはまだ完全には警戒を解かなかった。
見た目だけで能力は判断できない。
「油断するな。何かスキル持ってる可能性も――」
魔物が起き上がる。
三人を見る。
一歩。
こちらへ近づく。
また一歩。
「……ん?」
セインの言葉が止まった。
ピエナが鼻を動かす。
「何か臭くない?」
「……臭いね」
クリスも顔をしかめる。
魔物がさらに近づく。
臭いが強くなる。
一段。
さらに一段。
「…………」
三人が同時に後ずさった。
「くさっ!!」
最初に叫んだのはピエナだった。
「何これ!?」
クリスも鼻を押さえる。
「待って、目まで痛い!」
「息するな!」
セインも口元を押さえた。
「もうしたよ!」
「俺もした!」
「じゃあ遅いじゃん!」
魔物は何もしていない。
ただ。
そこにいる。
それだけだった。
なのに三人が下がっていく。
一歩。
二歩。
三歩。
魔物が近づく。
三人がさらに下がる。
「これ!」
ピエナが鼻をつまんだまま叫ぶ。
「さっきの魔物たち、こいつから逃げてたんじゃない!?」
セインは周囲を見る。
他の魔物の気配は完全に消えている。
大型魔物すら。
あれほど必死に走っていた。
「……たぶん」
強大な捕食者が現れたわけではなかった。
縄張りを奪われたわけでもない。
森の魔物たちは。
臭かったので逃げていた。
◇
「帰ろう」
ピエナが言った。
「原因分かったし!」
「待て」
セインが答える。
「何を待つの!?」
「確認したい」
「何を!?」
「これが普通の臭いなのか、スキルなのか」
ピエナがセインを見る。
クリスも見る。
「……そこ気になるの?」
「気になるだろ」
「俺は今、鼻の方が気になる!」
クリスの意見はもっともだった。
「生き物として元々臭いなら、それで終わり。でもスキルなら魔素を使って臭気を作ってるはずだ」
「どっちでも臭いのは一緒だよ!」
「仕組みが違う」
「セイン」
ピエナが真剣な顔をする。
「今それ必要?」
「必要」
「即答なんだ」
クリスが少し感心していた。
「セインって、こういう時すごいね」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「臭いところに自分から行くのすごいなって」
「それは褒めてないだろ」
◇
セインは魔物へ近づいた。
一歩。
「うっ」
二歩。
「……きつい」
後ろからピエナが叫ぶ。
「戻ってきていいよ!」
「まだ近づいたばっかりだ!」
「十分でしょ!」
さらに近づく。
魔物はセインを見ている。
敵意は薄い。
むしろ少し戸惑っているようだった。
「……魔素動いてる」
セインが呟く。
「分かるの?」
クリスが遠くから聞く。
「全部じゃない。でもこいつ、近づいた時に魔素が増えた」
魔物が鼻を鳴らす。
直後。
「うっ!」
臭いがさらに濃くなる。
セインが二歩下がった。
「強くなった!」
ピエナが叫ぶ。
「それ以上確認しなくていい!」
「たぶん間違いない!」
「じゃあ帰って!」
セインもさすがに戻った。
ピエナとクリスが同時に一歩離れる。
「なんで離れる?」
「臭い移ってない?」
ピエナが言う。
「移ってないだろ」
「自分じゃ分からないかもしれない!」
「今だけ近づかないで」
クリスも真顔だった。
「俺、何もしてないぞ」
「臭いところ行った」
「それだけだろ」
「今はそれが一番大きい!」
◇
「で」
少し距離を取ってから、クリスが聞いた。
「スキルだったの?」
「たぶんな」
セインは魔物を見る。
「魔素を使って、周囲に強い臭気を広げてる。自分に近づくものを遠ざけるためだと思う」
「だから他の魔物も逃げたんだ」
ピエナが納得する。
「戦わなくても近づかせないんだね」
「防御として考えるなら、かなり強い」
「……」
ピエナが嫌な顔をした。
「セイン?」
「何?」
「今、欲しいって思った?」
「少し」
「やっぱり!」
クリスが驚く。
「欲しいの!?」
「使い道はあるだろ。戦わずに魔物を遠ざけられるなら、野営の時とか――」
「私たちも遠ざかるよ」
「出力を弱くできれば」
「食事中に間違えて出たら?」
「出さなければいい」
「寝てる時は?」
セインが止まる。
「……それは分からない」
「ほら!」
ピエナが勝ち誇った。
何に勝ったのかは分からない。
◇
クリスが首を傾げる。
「でも、セインが欲しいって言っても普通は取れないよね?」
「ああ、まだちゃんと説明してなかったか」
セインは自分の胸へ手を当てる。
「俺のスキルは《簒奪》。相手に触れて、そのスキルの構造を自分に写せる」
クリスが数秒止まった。
「……え?」
「だから《粘糸》も《吸着》も、元は魔物のスキル」
「ええ!?」
声が森に響いた。
「そんなことできるの!?」
「できる」
「相手のスキルなくなるの!?」
「なくならない」
「じゃあ取るっていうより増えるの!?」
「今のところはそんな感じ」
クリスの目が一気に輝く。
「じゃあ色んな魔物のスキル使えるってこと!?」
「使い方を理解できれば」
「すごいじゃん!」
「でしょ?」
なぜかピエナが少し誇らしげだった。
「ピエナのスキルじゃないだろ」
「仲間だからいいの!」
「そういうもの?」
「そういうもの!」
クリスは再びクサイザーを見る。
「じゃあ、この臭いのも取れるんだ」
「たぶん」
「取るの?」
「取らない」
セインが答えた。
ピエナが大きく息を吐く。
「よかった……」
「そんなに?」
「そんなに」
クリスも強く頷いた。
「俺も今の話聞いて、一瞬すごいと思ったけど、一緒に旅するなら取らない方がいいと思う」
「二人とも信用なさすぎない?」
「スキルじゃなくて事故を警戒してるの!」
それなら少し分かった。
◇
三人は改めて魔物を見る。
牙。
爪。
硬い皮膚。
立派な尾。
どこを見ても強そうな要素ばかり。
なのに。
一歩歩けばよろける。
尾が木に当たる。
牙が枝に引っかかる。
爪が地面に刺さる。
そして何より。
臭い。
「こいつ、何て魔物なんだろ」
クリスが聞く。
「依頼票には書いてなかった」
ピエナが答える。
「まだ原因不明だったからね」
セインがもう一度魔物を見る。
「クサイザー」
「え?」
二人が同時に見る。
「何それ」
「今つけた」
「勝手に!?」
「臭いから」
「そのままじゃん!」
「分かりやすいだろ」
クリスが魔物を見る。
「クサイザー……」
少し考える。
「強そうだね」
「名前だけはね」
ピエナが言った。
魔物がまた一歩近づいた。
三人が一斉に下がる。
「やっぱ帰ろう!」
「賛成」
「俺も」
名前をつけた本人も、近づきたくはなかった。
◇
町務斡旋所へ戻る。
「原因は確認できましたか?」
受付の職員が聞く。
「はい」
セインが答える。
「大型魔物が一体いました」
職員の表情が引き締まる。
「危険度は?」
「低いと思います」
「大型なのに?」
「攻撃性はほとんどありません」
職員が記録を取る。
「では、なぜ周囲の魔物が逃げているのでしょう」
セインは少し考えた。
正確に説明する必要がある。
「臭いです」
職員の筆が止まった。
「……はい?」
「ものすごく臭いです」
ピエナが補足した。
「普通に近づくのが嫌になるくらいです」
「目も痛くなりました」
クリスも続ける。
職員が三人を見る。
「……臭気による被害、ということでしょうか」
「たぶんスキルです」
セインが説明する。
「魔素を使って周囲に強い臭気を広げています。他の魔物は、それを避けて森の外へ逃げてるんだと思います」
「なるほど……」
職員がゆっくり書く。
「大型魔物一体。攻撃性低。周囲へ強い臭気を放出。複数種の魔物が生息域を離れる原因となっている可能性あり……」
そこまで書いてから顔を上げる。
「討伐は?」
「してません」
「理由を伺っても?」
「襲ってこなかったので。それに、あの魔物自体が悪意を持って他の魔物を追い出している感じでもありませんでした」
職員は少し考える。
「承知しました。生息域を確認したうえで、街道や農地から離れた場所への追い払いが可能か検討します」
「お願いします」
「なお」
職員が筆を置いた。
「魔物の名称は判明しましたか?」
三人が一瞬黙る。
ピエナがセインを見る。
クリスも見る。
嫌な予感がした。
「クサイザーです」
セインが答えた。
「違います」
ピエナが即座に訂正した。
「今セインが勝手につけました」
「そうなのですか」
「でも分かりやすいだろ」
「報告書に勝手な名前書かせないで!」
職員は無言で、書きかけた文字を消した。
◇
斡旋所を出る。
「惜しかったな」
セインが言った。
「何が?」
「クサイザー、正式名称になりそうだったのに」
「ならないよ!」
「職員さん途中まで書いてた」
「セインが堂々と言うからでしょ!」
クリスが笑う。
「でも俺、結構好きだけどな。クサイザー」
「だろ?」
「クリスまで!」
「強そうだし」
「臭い魔物なのに?」
「だから面白いんじゃない?」
ピエナは少し考えた。
「……まあ、それはそうかも」
三人の中では。
その日から、あの魔物はクサイザーになった。
正式名称が何なのかは。
誰も調べなかった。
そしてセインは。
《簒奪》できるスキルを、初めて自分から見送った。
理由は単純だった。
臭かった。




