第8話「誰も見ていない夜に、初めて残業した」
残業に成功した。
やり方は驚くほど簡単だった。17時の鐘で馬車に乗る。車寄せで降りる。自分の部屋へ入って、内側から扉を掛ける。以上。
公爵令嬢の寝室の窓の下に婚約者が立っている道理はない。立っていたらそれはもう規定の話ではなく、別種の事件だ。
21時、机に向かった。来月ぶんの悪事計画である。休日の準備は第3条の但し書きで潰されたけれど、昨日は休日ではなかった。就業時間外の自室での作業を禁じる条文は、まだない。
24時。誰も来ない。
2時。鐘が鳴らない。
深夜2時の花壇では、あの時刻にかならず澄んだ音がする。しなかった。何も起きないまま、私の手だけが動いていた。
悪くない。悪くないはずだ。私は今日まで、あの音に何度予定を折られてきたと思っているの?
明け方までに来月の予定を全部埋めた。中断なし。差し戻しなし。承認も却下もなし。
前世でこれを味わったのは、終電を捨てた日の午前3時だ。消灯したフロアで、自分の手元だけが明るくて、電話が1本も鳴らない。誰にも邪魔されずに仕事が進む時間というのは、たしかに気分がいい。
気分がいいまま、私は29歳で死んだのだけど。
そのまま朝を迎えて、私は学園へ出た。
廊下に人だかりができていた。
教員室の扉が開け放してある。錠のまわりの木が白く削れていて、床に金具が落ちていた。
「期末の問題が持ち出されました。魔法理論です」
魔法理論の答案が、錠を壊して持ち出される。理論というのは試験に出るだけで、夜の廊下では何の役にも立たないらしい。
「昨夜この棟にいた者は」
「見回りのほかはおりません。0時と3時に通りましたが、3時の折はまだ錠も無事でした」
夜警が最後に通ったのは3時。錠がこじ開けられたのは、そのあとだ。写しを取って、扉を閉めずに帰った。
閉めずに。
その一点だけで分かる。あれは私ではない。私なら閉める。閉めるどころか、削れた木の粉まで拭く。金具を拾い、ついでに蝶番の軋みを直してしまう。
翌朝には錠前屋の見積もりを取って、教員室の扉が前より軽く閉まるようになる。それが私の悪事だ。1件も断罪の役に立たない。
私は手を挙げようとした。誰かに呼ばれる前に自分から出ていくのが、いちばん早い。
腕を上げきる前に、人だかりが割れた。
「昨夜、どこにいた」
殿下だった。学園へ来る時刻ではない。上着に外の湿気がついている。雨のにおいがした。
「自室です。残業していました。朝までひとりで、1件も中断されずに」
私はそこで、少し胸を張った。報告のつもりだった。上司に成果を伝える場面である。
「証人は」
「侍女は下がらせました。扉は内側から掛けています」
殿下が台帳を開いた。廊下の窓からの光で、頁がよく見えた。
昨日の日付のところが、白い。
白い。まあ、書くことがないんだから白いでしょうよ。
時刻も場所も内容も、何も書かれていない。90日のうちの1日だけが、雪の降ったあとみたいに空いている。
「昨夜の欄が空だ」
「空でいいじゃないですか。私は昨日、外に出ていません。書くことがないんですから」
「空の夜は、誰も証明できない」
声が低くなった。怒鳴ってはいない。この人は怒鳴らない。ただ、台帳を持つ手の親指が、頁の縁を押しつぶしていた。
「昨夜は何もしていないと、私が申し上げているじゃないですか。信じていただけませんか」
「私が信じるかどうかの話をしていない。お前が昨夜どこにいたかを言える人間が、この学園にも王宮にも一人もいない」
廊下が静かになっていた。生徒たちが後ろへ下がっている。王太子が声を低くするところを見たことのある人間は、たぶんここにいない。
私は自分の勤怠を管理されているだけだと思っていた。遅刻や早退を咎められるのと同じ種類の話だと。
違った。
台帳に書かれた夜、私はどこにいたかが決まる。書かれなかった夜は、どこにもいなかったことになる。
そして、あの台帳を書いている人間は一人しかいない。
舎監は見張りを付けろと言った。ヨアヒム様はその場で2名の手配を申し出ている。殿下はどちらも断り、記録は私が取ると言った。
断った結果が、昨日の空欄だ。
この人が見ていない夜は、この世の誰も見ていない。
「殿下。私を疑っていらっしゃるんですか」
「疑っていない」
「では、どうしてそんなにお怒りなんですか。私が悪事をしなかったからですか」
答えはなかった。上着についた湿気だけが答えみたいなもので、それが昨夜どこで拾われたものかは言わない。
「明日から、17時以降の所在を申告しろ」
「それは、どの条文に書いてあるんでしょうか」
「今朝、足す」
またです。この人の今朝は、本当に何時間あるんだろう。
殿下は台帳を閉じた。閉じるとき、昨日の白い頁のところに指を挟んだままだった。
怒られたのは、悪事のほうではなかった。




