エピローグ「定時後:特記なし/特記あり」
日が短くなってきた。
17時に鐘が鳴るころには、西回廊の窓がもう夕方の色をしている。夏至のあたりでは、この時刻がまだ昼のように明るかった。
学園の掲示板は、表彰の紙がすっかり入れ替わっている。花壇の二列目の薔薇は盛りを過ぎて、それでもまだ咲いていた。朝の早い時間に、当番の子が水をやっている。
ネリーの発表は終わった。壇の上で、彼女は最初の30秒で何の話か分かる話し方をする。終わってから私のところへ来て、寮の門限までに帰ります、と言って帰っていった。
定時を渡すと、人は本当に帰る。
掲示板の名簿は、いつのまにか貼り替えられていた。ブラント嬢とは廊下で何度かすれ違った。会釈をされたので、会釈を返す。それ以上のことは、たぶんこの先も起きない。
規定から悪事が消えて、残ったのは定時後の一行だけである。私の1日には、もう就業時間がない。悪役令嬢という役職もない。あるのは17時から18時までの、名前のつかない1時間だけだ。
前世の私が聞いたら、たぶん羨ましがる。あるいは、そんなものは仕事じゃないと言う。どっちも言いそうなのが困る。
朝は9時に目が覚める。行くところがないので、書棚を整えたりマルテと献立の話をしたりしているうちに昼になる。
家の帳から、私の名前はまだ外れていない。父はあれきり席次の話もしない。廊下ですれ違うと、以前より半歩ぶん足を止めるようになった。半歩では何も始まらないけれど、半歩ぶんは動いている。
退職願は、あれきり出していない。出す先が同じ人なので、出したところで結果が見えている。
見えているのに、様式だけは引き出しに残してある。私はやっぱり、書いた紙を捨てられない。
17時。
時計塔が鳴った。
私は上着の内から真鍮の鐘を出して、一回だけ鳴らした。同じ音が、半拍おいて隣からも鳴る。
殿下が自分の鐘を持ち上げていた。鐘が2つある暮らしにも慣れてきた。どちらも同じ真鍮で、同じ大きさで、音の高さまで揃っている。作らせた人が同じなのだから当然だ。
「本日の執務、終業」
「本日の勤務、これにて終業といたします」
声が重なった。どちらが早いということもない。
卓の上に台帳が開いてある。今日の頁は、もう書き終わっていた。
「殿下。最後の行が空いています」
「最後の行はお前が書くものだ」
羽根ペンを渡された。この人のペンは、いつも削りたてである。
私は自分の字で、その行に書いた。
『定時後 特記なし』
書いてから、少し考えた。何もしない1時間に、書くことはない。ないのが正しいんだと思う。正しいのに、行が短すぎて据わりが悪い。
殿下がペンを取り返して、同じ行の下へ書き足した。
『特記あり』
「殿下。同じ1時間ですけれど」
「同じ1時間だ。そこは動かない」
「では、どちらが正しいんです」
「両方書けばいい。書式は私が決める」
正しさを2つ並べる帳簿って、前世の経理なら一発で差し戻しだ。差し戻す人が、ここにはいない。いないというより、差し戻す側の人が卓の向かいに座っていて、その人が両方書けと言っている。
「特記というのは、何を指すんでしょう」
「書かない」
「……勤務ではないから、ですか」
「そうだ」
「承知しました。では私も、その欄は読まないことにします。読まないと決めておけば、書くほうが困りませんので」
殿下が少しだけこちらを見た。読め、とも読むな、とも言わない。
前にも同じ答えを聞いた。あのときは、私が何を言ったかが一行も残らなかった。
今度は、この人のほうが一行だけ残している。特記あり、の4文字。中身は書かない。
中身のない項目を、前世の私なら削っていた。削らないと帳簿が閉じないからだ。
閉じなくていいらしい。
閉じない帳簿を抱えて生きる。前世の私がいちばん怖がっていたのが、これだった。終わらない仕事。片づかない机。怖くて、私は毎晩いちばん最後まで灯りをつけていた。
いま、終わらないほうを自分で選んでいる。形は同じなのに、重さがまるで違うのはどうしてなの?
「殿下。ひとつ伺ってよろしいですか」
「言ってみろ。今日はまだ時間がある」
「王太子妃に、定時はありますか」
殿下の手が、頁の上で止まった。
「そういうものは、まだ誰も作っていない」
「では、作っていただけますか」
「作る」
即答だった。この人は、作るものについてだけは迷わない。
「では申請書の様式も、あわせてお願いします。定時だけあっても、申請できないと運用で潰されますので」
殿下は答えずに、台帳の余白へ何か書きつけた。
止めない人だと思っていた。実際、この人は一度も止めない。止めない代わりに、時間のほうを全部決めていった。決められた側がいま、次の規定を自分から発注している。
「ロザリンド」
「はい」
「明日も17時だ。鐘は持ってこい」
角灯の油が焼けるにおいがしていた。窓の外はもう暗い。
台帳の次の頁は、まだ白い。
白いところへ明日のぶんを書く人が、この台帳には二人いる。




