第30話「深夜2時、今度は私が規定を読み上げる」
夏至から、ひと月がたった。
宰相が退いて、その仕事の行き先が決まらないまま、上の紙が全部王太子へ落ちている。南部の陳情も、東の使節の日程も、門の通行証の数まで。
17時に、殿下が来ない日が出てきた。
最初はたまにだった。次の週は、来ないほうが多くなった。定時後の1時間は規定に残っているのに、片方が来なければ成立しない。
私は西回廊の窓辺で、ひとりで1時間座ってみた。
座れなかった。
手が空いていると落ち着かないのは前から変わらない。変わったのは、隣に羽根ペンの音がないと1時間が終わらないことだ。
というわけで、私は記録を取ることにした。
紙は、学園の予習に使っている帳面の、後ろの白い頁を使った。
『6日前 23時40分 王宮執務室 灯りあり』
『4日前 1時10分 王宮執務室 灯りあり』
『一昨日 3時20分 王宮執務室 灯りあり』
通りから窓を見れば分かる。あの部屋の灯りは、二階の北から2つ目だ。
1週間ぶん、全部ある。
我ながら気持ちが悪い。というか、これ完全に見張りでは? 前世なら人事に呼ばれている。
深夜2時。私は王宮の門を通った。
門で名を言えば通る、と言われたのは夏至の前だ。王太子の婚約者が真夜中に来ることを、この王宮はもう事件として扱わない。
執務室の窓の下に立った。角灯は自分で提げてきた。
窓は開いていて、中で羽根ペンの音がする。
「殿下」
音が止まった。
窓枠のところに殿下の顔が出た。昼と同じ制服。髪も乱れていない。目の下だけが、いつもより深い。
「こんな時間に、どうした。何かあったか」
「それはこちらの台詞ですが、質問にはお答えします」
私は懐から紙を1枚出した。折り目が四つ。
広げた紙の下に、赤くない印がひとつ押してある。
「読み上げます」
と言って、本当に読み上げた。
「王太子エドヴァルド殿下の勤務に関する規定。第1条、執務の就業時間は9時より17時までとする。第2条、17時に鐘を鳴らす。以後の執務は無効とする。第3条、休日の執務を禁ずる。第4条、就業時間外の執務を要する場合は、事前に残業申請書を提出し、上司の承認を得ること。第5条、送迎はウィンズロウ公爵家の馬車による」
「上司は誰だ」
「私です」
あの夜の花壇で、この人は同じことを言った。上司は私だ、と。あのとき私は、上司って誰、と思っただけだ。今夜は自分から名乗った。
「その印は」
「王印ではありません。国の印を私的に使うと、あとで数え上げられますので」
「では何だ」
「拇印です。墨をつけて押しました」
殿下はしばらく紙を見ていた。
「却下」
「……はい?」
「お前に規定を定める権限がない。よって却下する」
出た。この人はこれを毎晩やっていた。
私は上着の内から、真鍮の鐘を出した。
借りたのではなく、もらったほうだ。手のひらに載る。柄がついている。
持ち上げて、まっすぐ殿下を見て、一回だけ鳴らした。
澄んだ音が、王宮の中庭を渡っていった。
「本日の執務、終業」
「……いま、2時だ」
「存じております。17時から9時間の超過です。無効とします」
窓の中で、殿下が立ち上がった。
羽根ペンが机に置かれる音がした。書きかけの行を残して、この人が立った。
「殿下。いま却下とおっしゃいましたよね」
「言った」
「では、なぜお立ちになったんです」
「鐘が鳴った」
理由はそれきりで、あとは何も言わない。
鐘を持ったままの手が、まだ下がらない。鳴らしたのは私なのに。
窓の灯りが動いて、階段を下り、中庭に面した扉が内側から開いた。
角灯の下で、帳面を差し出した。
「台帳です。1週間ぶん、記録してあります」
殿下が頁を開いた。灯りあり、灯りあり、灯りあり。日付と時刻だけが並んでいる。
「見ていたのか」
「はい」
「どこから」
「門の外の通りです。二階の北から2つ目の窓は、外からよく見えます」
殿下が頁から顔を上げて、それからもう一度頁へ目を戻す。
灯りあり、としか書いていない記録だ。それでも、めくる速さが遅い。
「残業申請書は、これです。控えは私が持ちます」
帳面の最後の頁に、1枚の用紙を挟んである。申請者と日時、執務の内容、必要な理由。承認欄には、もう却下の拇印が押してあった。
「この1枚目は、もう却下してあるのか」
「はい」
「その却下は、第何条にあたる」
「ありません。運用でございます」
あの夜の運用が、そっくり私の口から出た。毎晩渡されると、様式ごと体に入る。
門に、ウィンズロウ家の馬車が停まっていた。
「乗れ、と申し上げるところですね。第5条です」
「送るのは、どちらからどちらへだ」
「私です。お住まいはこの王宮ですが、執務室から寝室までお送りします」
「近いな」
「近くても送ります。送らないと、途中で机に寄りますので」
馬車には乗らず、私たちは回廊を歩いた。
角灯を提げているのは私だ。
「殿下。続きは明日、9時からです。定時内なら受理します」
返事はなかった。
かわりに、半歩うしろの足音が、私の速さに合わせて遅くなった。




