第29話「ネリーに鐘を鳴らした日」
夜会から何日かたって、学園が元に戻った。
掲示板に、宰相が職を退いたという貼り紙が出ている。ブラント家の名前はそこにあるけれど、ヨアヒム様の名前はどこにもない。出ていった扉のことを、誰も口にしない。
代わりに、掲示板の前にブラント嬢が立っていた。ヨアヒム様の妹だ。
兄によく似た顔立ちで、囲まれるでもなく避けられるでもなく、魔法理論の課題の貼り出しを見上げている。
その斜め上に、春から貼りっぱなしの紙が残っていた。王太子妃教育の聴講名簿だ。婚約者の私が1行目で、下はずっと空欄だった。
いまは2行目が埋まっている。『ブラント伯爵令嬢』。
足した字に見覚えがある。私が袖で温めていた下書きと同じ字だ。書き足された日付は、夏至の前になっていた。
私は何もしなかった。
悪役令嬢として、これは職務怠慢である。ゲームなら、ここは私が何か言いに行く場面だ。言いに行く役の職が、いまの私にはない。
隣へネリーが来た。ブラント嬢が帳面を開いて指数のところを指すと、ネリーが説明をはじめた。
……教えるんだ。あの子、ほんとうに誰にでも教えるんだ。
ブラント嬢は何も知らなかったはずである。兄の板の上に何が載っていたかも、夜会の広間で何が読まれたかも、名簿の2行目に自分の名前があることも。知らないまま家の名前だけが下りてきて、それでも今日ここに来ている。
私は声をかけずに階段を降りた。かける言葉がないのではなくて、かける資格の欄が空いている。
規定から悪事の項が消えて、私の1日はがらんとしている。
9時に鐘は鳴る。鳴っても行くところがない。花壇の薔薇は咲いたままで、掲示板の鋲は4本とも揃っていて、ネリーの帳面に墨をこぼす理由がひとつもない。
前世でこれに近いものを味わったことがある。長い休みに入った初日だ。あの日も9時に目が覚めて、午後は何をしていいか分からなかった。
やることがないと、人は他人の仕事を見に行く。我ながらいい心がけ? 前世でこれをやって、私は他人の残業を何人ぶんも抱えた。
夕方、講堂の脇でネリーを見つけた。紙の束を抱えている。発表の日が近い。
「ロザリンド様。今日はこのあと、図書館の灯りをお借りできることになりまして」
「それは何時までのお約束になっていますか」
「……朝まで、と申し上げたら怒られますか」
「怒りません。却下します」
「でも、直したいところが残っておりまして」
「直したいところは、明日の朝にも直したくなります。明日の朝に直せば1回で済みます」
彼女は紙を抱え直して、それからこちらを見た。
「ロザリンド様。わたしも、定時が欲しいです」
言われて、しばらく何も返せなかった。
定時というのは、自分で決めると守れない。決めた人が守らせに来ないかぎり、人はいつまでも机の前にいる。私は2つの人生をかけてそれを証明してきた。
ただ、この子に定時を渡すというのは、この子の1時間を私が切るということでもある。切る側に回るのは、鐘を一回鳴らすのとは違う重さがあった。
殿下は毎晩それを、私ひとりのためにやってきた。
「ハルトマン様」
そこまで言って、言い直した。
「ネリー。ちょっと待っていて」
殿下は中庭にいた。
「殿下。手鐘をお借りできますか」
「用途は」
「終業です。ハルトマン嬢の、本日ぶんの」
殿下は上着の胸元から真鍮の鐘を抜いて、こちらへ渡した。ためらいがなかった。
「返さなくていい」
「え」
「同じものをもう1つ持っている」
いつのまに。
17時。
時計塔が鳴って、そのすぐあとに、私は講堂の脇で手鐘を一回鳴らした。
澄んだ音が、渡り廊下の天井を渡っていく。
「ネリー・ハルトマン。本日の勤務、終業」
ネリーは紙束を抱えたまま、ぽかんとしていた。それから、笑った。
「……はい。帰ります」
「明日は9時から。灯りは貸しませんので」
「ロザリンド様が貸すものではないと思います」
そこは言い返すんだ。
18時まで、私は西回廊にいた。
殿下が隣で台帳を開いている。
『17時2分 講堂脇 ハルトマン嬢に終業を告げる』
括弧がなかった。化ける必要がない。もとから悪事ではないからだ。
殿下が台帳を閉じた。まだ17時20分である。
「殿下。まだ書かれるものが残っているのでは」
「今日はない」
角灯に火は入っていない。窓の外はまだ明るい。手は二人とも空いている。
私は窓枠に肘を置いた。
鐘楼の屋根に、鳥が2羽止まっていた。片方が飛んで、もう片方が残る。残ったほうは、そのまま動かない。
気がついたら、18時になっていた。
前にも同じことがあった。59分がどこかへ消えて、鞄の中を探しても出てこない。あのときは、私ひとりが消していた。
今日は二人ぶん消えている。
窓の下を、帰りの生徒が何人か通っていった。声が遠い。西日が回廊の床へ、格子の形で落ちている。
「終わりだ」
「はい」
「明日も17時からだ」
明日も、と言った。
この人の1日は、まだ誰も終わらせていない。




