第28話「悪事は廃止。定時後だけ残す」
宰相閣下が束を卓へ戻した。
「……断罪は、成立いたしません」
広間の空気が、そこでようやく息をした。
誰も拍手はしない。断罪を見に来た人たちが、婚約者の勤務記録を延々と聞かされて帰るところだ。私が客なら、金を返せと言っている。
私は椅子に座ったままだった。立てなかったのではなくて、今度は立つ理由が分からない。
「殿下。それでは、被告の退職の件はいかがなさいますか」
「却下する」
「……はい?」
声が出た。広間じゅうの視線が来たけれど、そこは今どうでもいい。
「殿下。いま押されたばかりですよね。藍の印で。私、この目で見ました」
「承認したのは、断罪による追放を事由とする退職だ。断罪が不成立である以上、事由がない。事由のない申請は却下する」
「その事由を消したのは殿下ですけれど」
「そうだ」
取りつく島がない。島がないのに、この人はまだこちらを見ている。
閣下が咳払いをした。広間の後ろのほうで、誰かが小さく笑った。
「そうだ、で済ませられる話ですか」
「私はほかに言うことを持っていない」
「では申し上げます。退職願を出し直します。断罪によらない退職というものが、この世のどこかにあるはずです」
「断罪によらない退職の様式は、この国にない」
「作ってください。作るのはお得意でしょう」
「作らない」
殿下は承認の紙をもう一度こちらへ向けた。書き足された一行が、今度はよく見える。
字が乾いていない。押す前ではなく、押したあとで書き足している。
「効力は閉会をもって生ずる、と書いたのは私だ。閉会はまだだ。よって、いま却下できる」
自分で条件を書いて、自分でその内側に立っている。前世でこんな上司がいたら、翌朝いちばんに総務へ駆け込んでいる。
殿下は上着の内から、折り目の四つついた紙を出した。
広間の全員が見ている前で、羽根ペンを取る。
第1条に線が引かれた。第2条にも。第3条にも。
「規定を改定する。悪事は廃止する」
「……廃止」
「ウィンズロウ公爵令嬢の悪事に関する勤務規定は、以後、悪事を扱わない」
閣下が身を乗り出した。
「殿下。改定であれば、王印を」
「押さない。減らす改定に新しい印は要らないと、陛下には私から申し上げる」
閣下は何か言いかけて、やめた。ヨアヒム様が出ていった扉は、閉まったままだ。閣下はそちらを一度も見ない。見ないと決めた人の背中は、こんなに四角くなるんだ。
私は線の引かれた紙を見ていた。
第1条。悪事の就業時間は9時より17時までとする。あの夜、花壇の前で読み上げられた1行目である。
消えた。
消えたら、私は何をする人間になるの?
悪役令嬢というのは役職名である。役職がなくなれば、私はただの、深夜2時に目が覚める体質の女だ。前世でもそうだった。仕事の名前を外されたとき、手元に何も残らなかった。
「殿下。じゃあ、私の仕事は」
自分の声が、思っていたより細かった。
悪事がなくなる。断罪もない。退職も却下された。手元に残るものが1つも思いつかない。部署ごと無くなった人を、前の職場で見たことがある。あの人は机を片づけながら、同じ引き出しを何度も開けていた。
殿下は紙の下のほうへ、乾いていない字で一行足した。
『定時後の勤務のみ、これを残す』
「定時後だけ残す」
「……あの」
「以上だ」
以上だ、じゃないのよ。以上、で会議を終わらせる人が前の職場にもいた。あのあとには必ず宿題が残る。
廃止も新設も、この人は私に一言も訊かなかった。訊かないのは今に始まったことではない。深夜2時の花壇でもそうだった。読み上げて鐘を鳴らし、台帳を渡して帰っていった。
内容には最初から興味がなかったのだ。掘るのが薔薇でも抜くのが鋲でも、こぼすのが墨でも、この人はいつも同じ顔だった。切りたかったのは時間のほうだ。そこは手放さない。
悪事という中身を捨てて、時間だけを残す。
これは折れたのではなくて、余分が落ちただけだ。だから安心もできない。中身のほうを捨てられる人は、たぶん次も同じ捨て方をする。
「殿下。定時後に、私は何をすればいいんですか」
「決めていない」
「決めてから廃止してください」
殿下は答えない。
「殿下。台帳はどうなさるんですか」
「続ける」
「悪事を廃止したのに、何を書くんです」
「定時後だ」
書くことがなくなった台帳を、それでも続けると言う人がいる。
閉会の鐘が鳴った。
広間の人が動きはじめる。誰かが父の空いた椅子を元へ戻していった。マルテが文箱の蓋を閉めて、壁ぎわに立っている。
私の退職は、閉会の前に却下された。明日も私は勤務中で、家の帳から名前は外れない。
広間を出るとき、ネリーが私の袖を引いた。
「ロザリンド様。おめでとうございます」
「おめでとうと言われる要素、今日ありました?」
「わかりません。でも、そんな気がしまして」
この子の勘は、ときどき私より先に着いている。
明日の17時から、私は何の仕事もしていないことになる。
それでも17時には、鐘が鳴るらしい。




