第26話「夏至の夜会で、上司が承認印を押す」
広間に入って、最初に見たのは長卓の並びだった。
見覚えがある。
上座から4つ目がウィンズロウ家。その斜向かいが壁ぎわの通路で、扉のすぐ内側に控えの者が立てる幅がある。北の窓の下が読み上げの位置だ。
私が書いた並びである。
29通落とされた最後の1通で、私はこの席次表を書き換えた。悪事として最大の効果が見込まれる、と理由欄に書いた紙だ。誰も何も言わない。書き換えられたことに誰も気づいていないのだから、当たり前ではある。
壁ぎわに、文箱を抱えたマルテが立っていた。
私は自分の席に着いた。
17時の鐘は、広間の中では鳴らなかった。窓の遠いところで時計塔が鳴って、それきりだ。
規定は今日1日、止まっている。
ブラント宰相が立った。手に、見覚えのある束がある。表書きまで見えた。
『ウィンズロウ公爵令嬢の悪行について』
読み上げが始まった。日付。時刻。場所。行い。私の夜が順番に並んでいく。
深夜2時の花壇。1時半の厨房。0時15分の渡り廊下。
23時40分、寮の勝手口。
「いずれも時刻つきにございます。夜半に及ぶものが大半でございました」
壁ぎわで、ネリーが立ち上がりかけた。周りの手が、その肩を押さえている。
そこは違う。寮の勝手口の夜、私は西回廊の窓辺にいた。
違うのに、私は黙っていた。黙っていれば罪状が1件多くなる。多いほうがいい。
「恐れながら、もう一通ございます」
ヨアヒム様が進み出た。板の上から、皺の伸びた紙を1枚取る。
私の字だった。
『昨夜 23時20分 寮の事務室 寄宿費の受領簿を書き換える』
自分で書いて、自分で出して、却下される前に預けられた紙である。お預かりしますと言われたとき、私は胸を張っていた。
「被告ご本人の手による申告にございます。筆跡は、こちらの残業申請書と同一かと」
広間がざわついた。自分の罪を自分で書いて出す被告というのは、たしかに珍しい。
私は少し誇らしかった。前の職場では、読み上げられるのはいつも他人の企画書だった。今日は二人がかりで、私のぶんを読んでもらっている。
「ウィンズロウ公爵令嬢。申し開きは」
「ございません。すべて私の仕事です」
胸を張って答えた。前の職場で、年に一度の成果報告をしたときのつもりだった。
宰相閣下が殿下のほうを向いた。
「殿下。被告は退職を願い出ていると伺っております。断罪に先立ち、そちらのご裁可を」
殿下が立った。
上着の内から、折った紙を1枚出す。
『退職願。申請者、ロザリンド・ウィンズロウ。事由、断罪による追放を受けるため』
私の言葉だ。馬車の中で言ったことが、そのまま様式に起こしてある。字は殿下のものだった。
この人は、あの日から私の退職願を持っていたことになる。
承認欄は空いていた。この欄だけは、どれだけ申請しても一度も埋まらない。第5条にそう書いてあるからだ。退職には、上司の承認が要る。
上司は、この人である。
殿下が印を出した。
却下の赤ではない。藍だ。29通の下でたった1通だけ承認された、あの色。
落ちた。
紙の上で、空いていた欄が埋まった。殿下はその下へ一行書き足し、宰相閣下のほうへ紙を滑らせる。閣下は覗き込んで、うなずいた。
長卓の斜向かいで、椅子が引かれる音がした。
父が立って、広間を出ていった。何も言わない。私の名前も呼ばなかった。
「退職を承認する」
「殿下」
声が出た。自分の声だと分かるまで、少しかかった。
「……はい。ありがとうございます」
お礼を言っていた。前世の退職の面談でも、最後は必ずそう言っていた。辞めさせてもらえることに礼を言う癖が、体に残っている。
通った。
ずっと欲しかったものが、たったいま通った。
私は立ち上がろうとした。
膝が卓の脚に当たった。もう一度力を入れた。入れたのに、立てない。両手を卓についても、体が上がってこない。
通ったのだ。明日の朝には家の帳から名前が外れて、辺境へ行って、朝まで眠れる。鐘は鳴らない。却下印も来ない。
来ない。
誰も来ない。
「公爵令嬢。お立ちください」
ヨアヒム様の声だった。丁寧だった。
「いま立ちます」
立たなかった。
前の職場で辞表が受理された日のことを、思い出そうとした。思い出せない。私はあの会社を、受理されないまま出ていったのだ。今度はきちんと通っている。喜ぶところでしょ? ここ。
頭のほうはまだ、よかったですね、と言っている。体はもう別の答えを出していて、そちらのほうが速かった。
広間が静かになった。
殿下が卓の向こうから歩いてきて、私の正面に立った。台帳を抱えている。
顔を上げられなかった。
この人は明日から、17時に鐘を鳴らす相手がいなくなる。それを承認したのは、この人自身だ。
「ロザリンド・ウィンズロウ」
深夜2時の花壇で呼ばれたのと、同じ呼び方だった。
「以上の罪により——」




