第23話「頼みは1つ。夜会で定時に帰るな」
王宮の中庭は、砂を敷いた道が1本通っている。
17時の鐘のあと、道の端の石段に殿下が座って、台帳を開いていた。角灯はまだ出ていない。日が長い。
私は立ったまま、袖へ手を入れた。
紙は、袖の内側で私の手の形に固まっていた。もう皺の谷のほうが紙より厚い。
出すのに、思っていたより時間がかかった。
私は人に物を渡すのが下手である。受け取るほうは得意だ。他人の残業でも失敗でも、差し出されればいくらでも引き受ける。逆向きだけ、一度も練習していない。
「殿下。これをお渡しします」
石段の上へ置いた。
殿下は皺を伸ばして、消し跡のところを見た。それから顔を上げずに言った。
「これはハルトマン嬢が拾ったな」
「……なぜそこまで分かるんです」
「卓の下に踏み跡がある。あの日そこへ入ったのは彼女だけだ」
見ていたんだ、そこも。
「いつから持っていた」
「拾っていただいた日からです」
「そうか」
怒られると思った。殿下は台帳を開いて、今日の行の下に一行足しただけである。
『下書きの提出。握っていた日は数えない』
「殿下。それでは私の悪事が1件減ります」
「握っていた日は、お前の罪ではない」
羽根ペンを持つエドヴァルドの指に、今日も墨がついていた。
「あの下書きを書いたのは、ヨアヒム様です」
「知っている」
やっぱり。
袖の中で何日も温めた名前が、口から出た瞬間に既知の事実として処理された。
「いつからご存じだったんですか」
「初めの一通からだ。証拠なら、お前も見ている」
「そんなもの、私は何も見ていません」
「束の角に、私の字がある。届いた日だ」
執務室であの束を読んだとき、どの角にも小さな字があった。私は下のほうだけ見て、勤務規定より古い、と思って返した。
古い、で終わらせてはいけなかったのだ。
「あの紙に書いてある夜より、紙が届くほうが早いということですか」
「そうだ。初めの一通からその形だ。寮の勝手口の件は、いちばん上の一通だ。角に書いた日付が、件の起きた夜の前日になっている」
「……それはもう、書いた人にしかできません」
知っていた根拠は束の下から続いていて、いま人に見せられるのがいちばん上の一通だ。
風が砂の道を撫でた。私はもうひとつ、喉に引っかかっていたものを出した。
「台帳が新しくなって戻った日、表紙の裏に紙が挟んでありました。原本は綴じ直しに出しております、と。あのとき殿下は、戻らないと即答なさいましたよね」
「王宮の綴じ直しは、私の名で出す。出していない」
「……出先も確かめずに、その場で言い切られたんですか」
「確かめた。私の名を使った覚えのない仕事が、私の名で動くことはない」
この人は自分の名前がどこで使われているかを、たぶん全部知っている。だからあの日、あんなに早く顔の色をなくした。
「殿下。式次第の会では、台帳がヨアヒム様の板にありました」
「知っている」
「お預けになったんですか」
「預けていない。あの男が運べるのは紙だ」
一度書き直した人が、二度書けないわけがない。それはそうなんだけど、渡ってもかまわないみたいな言い方をするこの人が、白い頁に手を置いたまま動けなくなっていたのを私は見ている。
殿下は台帳を閉じて、膝の上に置いた。
「ひとつ頼みがある」
頼み。
命じたことはある。規定を読み上げ、鐘を鳴らし、印を押した。全部、上から下へ落ちてくる言い方だった。頼むというのは、押される側の言葉だ。
「夜会で、定時に帰るな」
「……はい?」
退職したい人間に向かって、定時に帰るなと言う上司がいる? 定時を作った当人が、その定時を自分で取り下げにきている。
「17時に鐘が鳴っても広間を出るな。閉会まで残れ」
耳を疑った。疑ってから、私は様式の話へ逃げた。
「殿下。それは残業でございます。事前の申請書が要ります。第4条です」
「書く」
「え」
「様式は台帳の後ろだ」
殿下は最後の頁から用紙を1枚抜いて、膝の上で書きはじめた。申請者の欄に、殿下の名前が入っていく。
承認された残業は、1通きりだ。29通が落ちて、最後の1通にだけ藍の印がついた。あれは私が出して、この人が通した。
向きが、入れ替わっている。
「殿下。理由の欄が空いています。必要な理由、と刷ってありますよ」
「理由は、私が書く欄ではない」
それでも殿下は、しばらくその欄を見ていた。それから何も書かずに、紙をこちらへ差し出した。
「承認欄はお前だ」
「私、却下の印も承認の印も持っておりません」
殿下が羽根ペンを差し出した。なら書け、ということらしい。私はその先を借りて、承認欄に自分の字で承認と書いた。返そうとしたら、殿下が首を振る。
「控えはお前が持て」
あの夜、同じ形の紙を私に渡して、控えは私が持つと言った人だ。今日の紙には、承認と書いた私の字が入っている。
日が落ちかけていた。砂の道に影が長く伸びている。
「殿下。私は夜会で、何をすればいいんですか」
「残れ」
「残って、何を」
「それが分かるなら、頼まない」
理由の欄が空いている意味が、少しだけ分かった気がした。気がしただけで、私にも書けるものはない。
袖には、承認欄に私の字の入った紙が1枚。丸めた紙の代わりに、折り目のない紙が入っている。




