第21話「定時後の私は、何の仕事をしていたんでしょう」
深夜2時に目が覚めた。
起きようと思って起きたのではない。前世の終わりごろもそうだった。眠っていても、この時刻になると肩を叩かれたみたいに目が開く。
窓を開けると、外の空気が温い。夏至が近づいている。
私は上着を羽織って、家を出た。
門の外に馬車はない。王命が下りてからというもの、手続きのほうが勝手に進んでいく。夜会の日取りも広間の使い方も、私の名前が並ぶ順番も、私のいないところで決まっていく。前の職場の退職手続きと、驚くほど似ている。
学園の東棟まで歩いた。
花壇の二列目。私が薔薇の根を掘りかけて、土だけ耕して帰った場所だ。
薔薇は枯れていなかった。
枯れていないどころか、細い枝の先につぼみがついている。硬くて、まだ色も出ていない、指先ほどのものが5つ。
掘り返した土はふかふかのまま残っていて、雑草が1本も生えていない。
私のせいだ。
「早いな」
石の縁に角灯が置いてあった。火が入っている。殿下がその隣に腰かけて、膝に台帳を載せていた。
「殿下。本日は悪事ではありません」
「知っている。手ぶらだ」
灰も鋏も墨壺も持っていない。手ぶらで深夜2時の花壇へ来た自分のことを、私がいちばん納得できていない。
つぼみのところへしゃがんだ。
「殿下。伺ってもよろしいですか。私、引き継ぎ書を作ろうと思ったんです」
「何の」
「定時後のです」
羽根ペンの音が、途中で薄くなった。
「退職するなら、後任へ渡すものが要ります。辞める人間がいちばん最後にやる仕事です。夜会のあと、17時から18時のあいだ、殿下の見えるところに座る方がいらっしゃるわけですから」
返事がない。
……あれ。いま私、何か変なことを言った? 業務は人が替わっても続く。続かない業務は業務ではない。前の職場で、耳にたこができるほど聞かされたやつだ。
私は袖から折った紙を出して、石の縁で広げた。様式は前世のものをそのまま写してある。欄は4つ。業務名。目的。手順。引き継ぎ事項。
我ながら完璧な様式である。上から順に埋めれば、誰が読んでも同じことができる。できるはずなのに、いちばん上で詰まった。
「業務名の欄が、埋まらないんです」
「仕事ではない」
「それは伺いました。伺いましたけれど、名前がないと欄は埋まりません。埋まらないものは渡せません」
私は自分で読み上げてみた。
「では殿下。目的は何でしょう。その業務が何のためにあるかを書く欄です」
「ない」
「手順のほうは。誰が来ても同じようにできる順番です」
「座る」
「……手順だけあるじゃないですか」
業務名も目的もない業務に、手順だけが1行ある。こんなものを前世で見つけたら、私は真っ先に廃止を提案している。提案書を出しておいて、その晩も自分だけ残っている。
殿下は台帳の頁をめくって、そこへ何か書いた。中身は見せない。終業後だから見せないという規定が、この人の中にはある。
残りの頁が薄い。使い切るのと夜会と、どちらが先に来るんだろう。
私は空の欄を見ていた。
前の職場で、私は自分の仕事に名前をつけるのが得意だった。誰も呼び名をつけていない雑用にも、報告書の題になる言い方を必ず用意した。名前がつけば予算がつく。予算がつけば人がつく。名前のない仕事は、いつまでも誰かの善意のところに置き去りになる。
置き去りが嫌で、私は片っ端から名前をつけた。片っ端から引き受けて、最後は名前をつけた本人がいなくなった。
いま、目の前に名前のない1時間がある。
「殿下。仕事ではないなら、何なんですか」
訊いてしまった。ずっと訊かずにきたのに。
角灯の火が、風でもないのに一度だけ揺れた。殿下は書く手を止めない。止めないまま、しばらく何も言わなかった。待っているあいだ、人はこんなに長く息を止めていられるものなの?
「引き継ぎ事項の欄には、何を書けばよろしいですか」
「渡すな」
短かった。
渡すな、というのは業務の話ではない。業務なら引き継げと言うはずだ。廃止でもなく、保留でもなく、渡すな。
その意味をどう書けばいいのか分からなくて、私は紙を折り直した。
「殿下、いまの、様式のどこにも入りません」
「そうだ」
「困ります。様式が埋まらないと、私は手ぶらで辞めることになります」
「困れ」
つぼみの上を風が通っていった。空はまだ暗い。鐘はどこでも鳴らない。終わらせるものがこの時刻には無いので、私たちは終われないまま並んでいる。
殿下が角灯を提げて立ち上がった。花壇を見て、私を見る。あの夜とまったく同じ順番だった。
「土は夜会の日まで触るな。水もやらなくていい」
「触りませんけれど、なぜですか」
「咲く」
咲くらしい。私の悪事の現場が。
帰り道で、紙をもう一度開いた。
業務名の欄は空いたままだった。
空欄は嫌いだ。2つの人生を通して、私はこれをいちばん嫌ってきた。




