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転生した悪役令嬢ですが、悪事で残業ばかりしていたら、王子が定時で終われとルールを定めてきます  作者: 夜凪 蒼


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第2話「9時の鐘が、学園ごと鳴った」

9時。鐘が鳴った。


時計塔だけではない。講堂の上の小さいのも、寮の呼び出し鐘も、全部が一度に鳴っている。窓の外で鳩が一斉に飛び立って、校庭の生徒が空を見上げていた。


「本日より、始業の鐘は9時に改められました」


隣でマルテが言う。私の侍女は表情というものをあまり使わない人で、こういう報告を朝食の献立と同じ声で運んでくる。


「改められましたって、誰が決めたのそれ」


「王太子殿下が、鐘つきの者に直々に」


8時半だった始業が、9時になった。学園にいる全員の朝が、30分うしろへ動いたわけだ。


私の就業時間に合わせて。


いや逆でしょ。私が学園に合わせるところでしょ、普通。国の鐘をまとめて動かす前に、婚約者に「8時半から働け」と一言言えば済む話でしょ。


教室に入ると、ネリー・ハルトマンの席は空だった。花壇当番は9時15分まで戻らない。昨夜、私が掘り返したあの花壇の当番だ。


机の上に帳面が一冊、角をきっちり揃えて置いてある。表紙に魔法理論、その下の名前の字も真っ直ぐだった。


私は墨壺を持ち上げた。


悪事である。時刻は9時を回っている。就業時間内である。何の問題もない。


傾ける。黒がひらいて、紙の上を走った。


いい。すごくいい。これで彼女の予習は全部消えた。悪役令嬢として満点の仕事だ。


満点なのだけど、墨が机の木目を伝って、隣の席のほうへ流れはじめている。隣はネリーの席ではない。関係のない子の席だ。


……拭くか。


袖口で堰き止めて、懐の布で木目に沿って拭き取っていく。逆らうと広がるので、沿って。これは悪事の範囲を彼女ひとりに限定する作業なので、むしろ悪事の精度が上がっている。そういうことにしておく。


問題は帳面のほうだった。


墨をかぶった頁の下の頁が滲んでいる。読めなくはない。読めなくはないのだけど、指数の位置が潰れていて、このまま覚えたら彼女は試験で確実に間違える。そこは先生が二度言い直した行だ。


気がついたら、私は自分の帳面を開いて、同じ行を彼女の頁へ書き写していた。


書き写して、ついでに指数の位置を直して、下に小さく注を入れている。


「受理する」


声がして、手が止まった。


教室の後ろの扉に、エドヴァルド殿下が立っている。昼の制服。角灯はない。かわりに、あの台帳を抱えていた。


「殿下。これはその、途中でして」


「本日9時12分。東棟3年教室。ハルトマン嬢の帳面に墨。定時内につき有効とする」


殿下は窓際の机に台帳を広げ、立ったまま書きはじめた。羽根ペンが紙を擦る音が、やけに近いところで鳴っている。私はその音を聞きながら、自分の指が根元まで真っ黒なのにようやく気づいた。


「有効って、なんですか。私、いま嫌がらせをしたんですけど」


「規定の第1条だ。9時から17時までの悪事は有効。お前は9時12分に行った。よって有効」殿下は手を止めずに言う。「やめろとは言っていない」


言っていない。深夜2時にも言われなかった。この人は本当に一度も言わない。


廊下を走ってくる足音がした。


「ごめんなさい、遅くなっ——」


ネリー・ハルトマンが飛び込んできて、自分の机と、机の上の黒い海と、指の真っ黒な私と、王太子殿下を順番に見た。


ゲームだと、ここで彼女は青ざめる。悪役令嬢の嫌がらせに涙ぐみ、攻略対象が庇いに入り、私は断罪の材料をひとつ積める場面だ。


ネリーは帳面を持ち上げて、めくった。


「これ、書き足してくださったんですか」


「違います。それ、私が墨をこぼしたんです」


「指数の位置、わたし逆に覚えてました」顔を上げた彼女の目が、光っている。青ざめる気配がどこにもない。「ありがとうございます、ロザリンド様」


聞いてない。人の自白を一行も聞かずに礼を言う子がいる。机の上には私の字で直った彼女の帳面があって、私の手は墨だらけで、私は現場を押さえられた犯人ではなく朝から人助けをした令嬢としてここに立っている。


悪事が。善行に。


「殿下、これ、取り消せませんか」


「取り消しの規定はない。書いていないことは行えない」


ないんだ。


殿下は台帳を閉じ、机に転がったままの墨壺を指二本で起こした。倒れた口から垂れたぶんが、親指の腹についた。拭かないまま、その手で台帳を持ち上げる。下から赤い封蝋の書類の束が出てきた。封はどれも切れていない。


台帳と束をまとめて小脇に入れ、扉のほうへ歩いていく。ネリーが慌てて礼をして、それから顔を上げた。


「殿下、そちら、まだ封を切っておられませんけれど」


「第1限だ」


第1限だ、じゃないのよ。


扉が閉まって、廊下の音が遠くなった。次に鐘が鳴るのは17時。


私は墨のついた指を拭きながら、さっきの音を思い出していた。羽根ペンが紙を擦る音。あの人は私が墨を傾けた時刻を、その場で、自分の手で書いた。誰かが駆け込んできて耳打ちしたわけでもなく、届いた紙を読み上げたわけでもない。


9時12分。


第1限の、真ん中だ。


この人、自分の仕事はいつしてるの。

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