第1話「深夜2時、悪事の最中に鐘が鳴った」
深夜2時。私は薔薇を掘っている。
学園の東棟、花壇の二列目。ネリー・ハルトマンが毎朝水をやっている薔薇だ。根元まで掘り返して、枯らす。悪役令嬢の仕事として、これは正しい。正しいはずなんだけど、掘っているうちに雑草の根が絡んでいるのが気になって、そっちを先に抜いている。おかしい。私は薔薇を枯らしに来たのであって、花壇を整えに来たのではない。
前世の話をする。私は残業で死んだ。29歳、社内で一番遅くまで灯りをつけていた人間として、そのまま灯りごと消えた。目が覚めたら乙女ゲームの悪役令嬢、ロザリンド・ウィンズロウ公爵令嬢。断罪されて追放される役だ。
つまり、退職が決まっている。
これほど安心する設定があるだろうか。追放先は辺境の領地。やることは何もない。寝ていい。断罪の日まできちんと悪事を積み上げれば、正式に、円満に、辞められる。
だから今夜も働いている。
「ロザリンド・ウィンズロウ」
背後から名前を呼ばれて、土を握ったまま振り向いた。
灯りがある。手提げの角灯を持って、婚約者のエドヴァルド王太子殿下が立っていた。夜着ではない。昼間と同じ制服で、髪も乱れていない。深夜2時に。花壇の前に。
「殿下。こんな時間に、どうされました」
「それはこちらの台詞だが、質問には答えよう」
殿下は角灯を花壇の縁に置き、上着の内から1枚の書類を出した。折り目が四つ。広げた紙の下に、赤い封蝋。王印。見間違えようがない。
「読み上げる」と言って、本当に読み上げた。
「ウィンズロウ公爵令嬢の悪事に関する勤務規定。第1条、悪事の就業時間は9時より17時までとする。第2条、17時に鐘を鳴らす。以後の悪事は無効とする。第3条、休日の悪事を禁ずる。第4条、就業時間外の悪事を要する場合は、事前に残業申請書を提出し、上司の承認を得ること」
上司って誰。
「上司は私だ」
声に出ていた。
「殿下、これ、王印ですよね」と、訊かなくても分かることを訊いた。
「そうだ。今朝、陛下の執務室で押した」
今朝。この人は今朝、国の印を、私の残業を管理するために使った。花壇のために。
殿下は書類を畳み、今度は反対の内側から、小さな鐘を出した。手のひらに載る真鍮の鐘。柄がついている。それを持ち上げて、まっすぐ私を見て、一回だけ鳴らした。
澄んだ音が花壇の上を渡っていった。
「本日の悪事、終業」
「……いま、2時なんですけど」
「知っている。17時から9時間の超過だ。無効とする」
無効。無効って何。私の掘った薔薇はどうなるの。
視線を落とすと、薔薇はまだそこにあった。根は半分も出ていない。掘り返した土だけがふかふかに耕され、雑草が綺麗に抜かれていた。誰が見ても、手入れの途中の花壇だった。
これは悪事の途中なのだけど。
「やめろとは言わないんですか」
訊いてから、自分で驚いた。普通そこを言うでしょう。悪役令嬢が夜中に花壇を荒らしていたら、婚約者はまず、やめろと言う。断罪の材料にする。少なくとも怒る。
殿下は少しも怒っていなかった。
「悪事はお前の仕事なのだろう」
「そう、ですね」と答えて、答えてから気づいた。婚約者に向かって、悪事を仕事だと認めている。しかも敬語で。
「なら止めない。時間を決める」
角灯の横に、いつの間にか帳面が置いてあった。分厚い。
「台帳だ」
殿下がそれを開いて、私のほうへ向けた。
日付。時刻。場所。内容。
『6日前 23時10分 図書館裏 ハルトマン嬢の本を隠す(棚の整理に化ける)』
『4日前 1時半 厨房 ハルトマン嬢の朝食に塩(味見して戻す)』
『一昨日 5時 中庭 ハルトマン嬢の靴を隠す(磨いて返す)』
1週間ぶん。全部ある。塩の件は私しか知らないはずだ。味見して、これはこれで美味しいと思って、皿を元の位置へ戻したことも。靴だって、汚れたまま隠すのが気になって、結局きれいに磨いてから隠した。隠した意味はなかった。
「残業申請書は、これだ。控えは私が持つ」
台帳の最後の頁に、1枚の用紙が挟んであった。申請者、日時、悪事の内容、必要な理由。承認欄には、もう却下の印が押してある。
「押してあるんですけど」と用紙を裏返しても、裏は白紙だった。
「1枚目は却下だ」
「第何条ですか、それ」
「条文にはない。運用だ」
運用。この世界にも、どこにも書いていないのに全員が守っているやつがあるんだ。
「じゃあ、なんで渡すんです」
「2枚目からは読む」
殿下は角灯を持ち上げた。帰るらしい。花壇の前に立って、薔薇を見て、私を見た。
「土は明日、9時から戻せ。定時内なら受理する」
台帳を閉じるとき、殿下は最後の頁を見ずに閉じた。頁の位置を指が覚えているみたいに。
足音が遠ざかっていく。私は土まみれの手で用紙を持ったまま、まったく動けなかった。
塩の件。
味見をしたところまで書いてあった。あの時間、厨房には私しかいなかった。
1週間。この人、どこから見ていたの。




