第19話「拾った下書きの字に、見覚えがある」
夏至の夜会の準備が始まった。
学園の講堂に長卓が運び込まれて、王宮から人が来て、席次だの燭台だのを並べている。私はその隅で、飾り布の房を1本だけ結び目の向きを変えるという地味な悪事をしていた。
当日、どこかの家の紋が逆さまに掛かる。誰も死なないし、誰も困らない。困らないというか、房の向きが揃うので、たぶん見栄えがよくなる。私の悪事はもう、着手した時点で結果が読める。
「ロザリンド様」
ネリーが卓の下から顔を出した。手に、くしゃくしゃの紙を持っている。
「卓の脚のところに落ちていました。踏まれた跡があるので、掃除の方が気づかなかったんだと思います」
受け取って、広げた。
書き損じだった。同じ文が二度書かれて、二度目の途中で線が引いてある。日付と時刻、場所と行い。
『2日前 0時40分 中央棟の書庫 ウィンズロウ公爵令嬢が——』
その先が消してある。消して、書き直して、また消してある。
下書きだ。
私のところへ届いていた告発状は、どこか遠くから運ばれてきた紙ではなかった。ここで書かれている。何度も書き損じて時刻を選び直しながら、この講堂か、そのすぐ隣で。
字は几帳面だった。
行の高さがぴたりと揃っている。書き損じて線を引いた行まで、寸分ずれていない。
この揃い方を、私は最近どこかで見ている。
新しい表紙の台帳。美しく並んだ時刻。表紙の裏に挟まっていた2行の——
そこで、指に力を入れた。
紙が音を立てて丸まった。
「ロザリンド様?」
「なんでもありません。皺が気になったので、伸ばしていただけです」
「あの、それ、殿下にお見せしたほうがいいと思います」ネリーは真面目な顔をしていた。「ロザリンド様の名前が書いてあります。ロザリンド様がやっていないことも書いてあります。わたし、2日前の夜はロザリンド様と一緒でしたし」
「一緒ではないでしょう。あなた、寮にいましたよね」
「17時までご一緒でした」
そこは数えるところではないです、と言いかけて、やめた。この子はいつも、自分に見えているぶんだけを全部差し出してくる。
「私が渡しておきます。今日の夕方、お会いしますので」
「はい。よかった」
彼女は安心した顔で、卓の下へ戻っていった。
私は丸めた紙を握ったまま、講堂の隅に立っていた。長卓を運ぶ音と、燭台を数える声が、ずいぶん遠くのほうで続いている。
渡さない。
渡したら、どうなるか。殿下はあの字を見る。見れば分かる。分かった瞬間、告発状は止まる。止まったら夜会で読み上げる罪状がなくなって、私の退職は消える。
そうなのだ。私を辞めさせてくれる唯一の書類を、いま私は手の中で潰している。潰したまま黙っていれば、書類は増え続けて、夏至の夜会で全部揃う。
理屈は通っている。通っているのに、なんで喉のあたりが詰まるの?
夕方、鐘が鳴って、その日は講堂の脇の小部屋へ呼ばれた。
殿下は台帳を膝に置いて、今日の行を書いていた。
「16時5分。講堂。飾り布の房を1本、結び目の向きを変える」
「殿下。括弧の中は、どうなさるんですか」
「まだ書かない。当日どちらに化けるか分からん」
判定の保留がある悪事というのも珍しい。少しだけ嬉しくなって、それから、自分の袖の内側が硬いのを思い出した。
丸めた紙は、そこにある。
「殿下。今日は、ほかに何かございましたか」
「ない。今日のお前のほうはどうだ」
「私も、ありません」
嘘をついた。
殿下は羽根ペンを置いて、私の顔を見た。長い時間ではない。ほんの数えるほどのあいだで、その数えるほどのあいだに、私は自分の右の袖を左手で押さえていた。
「そうか」
書かれていく行は、今日も正確だ。時刻も場所も間違っていない。間違っていないのに、この頁は今日から嘘になった。嘘にしたのは私で、この人ではない。
部屋を出て、廊下の窓のところで手を開いた。
皺だらけの紙。消し跡。揃った行の高さ。
これを伸ばして、明日いちばんに渡せばいい。そうすれば全部おしまいだ。
おしまいというのは、あの束が止まるということだ。夜会で読み上げるものが無くなって、夏至の翌朝も私が同じ時刻に起きる。
私はそれを、もう一度丸めて袖へ戻した。
悪事は今日、2件だった。1件目は房の結び目で、これはたぶん見栄えがよくなる。2件目は、この紙を隠したこと。
握りつぶした紙は、誰の役にも立たない。ネリーの当番も片づかないし、誰の靴も磨かれないし、燭台の煤も落ちない。化けようのない悪事を、私は今日はじめて成功させている。
私は袖へ手を入れて、紙の角をきつく折り直した。




