第18話「覚えているほうが書けばいい」
翌日の定時後、行き先は王宮の小さな控えの間だった。
卓に新しい台帳と、灯りがひとつ。殿下は昨日と同じ姿勢で座って、白い余白の頁を開いた。
「書き直す」
「何日ぶんですか」
「全部だ」
全部。定時後の同伴が始まってから、今日までの全部である。私は自分の膝の上で指を組んだ。ここで役に立てることが、たぶん1つだけある。
「お手伝いします。私、あの時間にいた本人ですので」
「お前は覚えていない」
「覚えていますよ。失礼な。何日か前は、お茶をいただきました」
「茶は4日前だ。3日前は水で、卓の右手に置いた。お前は口をつけていない」
私は自分の記憶をめくった。水。……水?
殿下はもう書きはじめていた。羽根ペンが紙を擦る音が、あの時間とまったく同じ速さで戻ってくる。
「初日、お前は右の椅子に座った。翌日から左だ。西日が目に入る側を空けた」
「そんなこと、私も気づいていませんでした」
「6日前は雨で、卓を窓から遠ざけた。お前は肩を二度すくめて、そのあと動かなくなった」
そこで顔を上げた。
「動かなくなったというのは」
「眠っていた。23時の少し前から18分」
「……起こしてくださいよ」
「終業後だ」
そういう理屈で、この人は18分のあいだ隣で起きたまま待っていたわけだ。
机で寝ていたら、前の職場なら付箋が貼られる。起きたときには仕事が3つ増えている。ここでは18分ぶん、誰の机にも何も足されなかった。
書かれていく行を、私は横から読んだ。
『19時8分 西回廊 窓辺。日が落ちるまで外を見る』
『19時24分 鐘楼の上を鳥が通る。目で追う』
『19時40分 卓の縁を指で叩く。以後、動かず』
これは記録というより、私の1時間そのものだった。私が何をしていたか、私より細かく残っている。恥ずかしいのに、消してくださいとは言えない。消えたばかりのものを、いま書き戻してもらっているところなので。
「殿下。私、そんなに見られていたんですか」
「時刻と所在を書く。それだけだ」
それだけ、で済ませられる細かさではない。鳥を目で追った回数まで、この人の中に残っている。
書き直しは事務仕事のはずだった。帳簿の穴を埋める作業で、だから私は手伝えると思った。手伝えないのは、私の記憶がこの人の半分も残っていないからだ。
半分どころではない。
試しに、7日前の自分を思い出そうとしてみた。出てきたのは窓の外の色と、角灯の油のにおいだけである。私はあの1時間を、毎日まるごとどこかへ置いてきているらしい。
「読み上げてくれ」と殿下が言った。「並びが合っているか、聞いておきたい」
言われるままに、私は書き上がった頁を声に出して読んだ。
自分の夜を、自分の声で読む。窓の外を見て鳥を目で追い、卓の縁を指で叩いて、それから黙っている女の話である。
読みながら、途中で止まった。
無い。
私の言ったことが、1行も無い。
あの回廊で、私はよく喋っている。辞めたい、辺境に行ったら朝まで寝る、退職金の代わりに空気をもらう。勤怠の話もした。殿下はそのあいだ、ほとんど何も言わない。
私はそれを、聞き流されているのだと思っていた。時刻と記録にしか興味のない人だから、こちらの話は耳を素通りしているのだと。
「殿下。私、辺境の話を長々としましたよね」
「4日前の19時12分から19時41分だ。お前は窓の桟に肘をついていた」
「中身は」
「書かない」
書かない、と言った。
聞いていなかった、ではない。覚えていない、でもない。書かないと言った人の手は、そのあいだも新しい行を進めていた。
この人は、私が何時にどこで何をしたかを全部持っている。持っているのに、私が何を言ったかは1つも紙に載せない。取りこぼしではなかったのだ。最初から、載せないことに決めている。
胸の奥のほうが苦しい。灯りの芯が短くなって、部屋の影がひとまわり大きくなった。
「なぜ書かないんですか」
「勤務記録だ」
「私の言葉は勤務ではないと」
「そうだ」
言い方はいつもと同じだった。無効とする、有効とする、却下する。それと同じ調子で、そうだ、と言う。
じゃあ、あの回廊で私が喋っていたのは何だったの?仕事ではない時間に、仕事ではない話をした。それを、仕事の道具しか持っていない人が仕事の紙に書かずに聞いている。
灯りの油が焼けるにおいがしていた。頁はもう3日ぶん埋まっている。殿下の手はまだ止まらない。
私は最後まで読み上げた。時刻も椅子も鳥も、眠った18分も全部そこにある。
私の言ったことは、一行も戻らなかった。




