第17話「清書された台帳から、夜が消えていた」
礼拝堂の蝋燭を短いものに取り替えた。
ネリーの当番である。夕の礼拝の途中で火が落ちれば、当番の落ち度になる。時刻は11時。堂々たる就業時間内の悪事だ。
取り替えながら、燭台の受け皿に蝋が溜まっているのが気になった。そこを削る。ついでに芯を切り揃える。芯が長いままだと煤が出て、天井が汚れて、あとで誰かが梯子に乗ることになるので。
「11時20分。礼拝堂。ハルトマン嬢の当番の蝋燭を短いものに替える」
いつの間にか扉のところに殿下がいて、台帳ではない小さな紙に書きつけていた。休日から2日たつ。清書に3日ほどと言われたので、台帳はまだ戻っていない。
「括弧、燭台の手入れに化ける」
「殿下。私、今日はまだ何も化けさせていません」
「芯を切った蝋燭は、短くてもよく燃える。夕の礼拝は明るい」
化けるのが早い。着手から20分で善行になる悪事というのは、効率としてどうなの。
17時の鐘のあと、その日の行き先は学園の東の回廊だった。
窓辺の卓に、台帳が置いてあった。
戻ってきている。表紙が新しい。角がぴんと立っていて、頁を開くと紙の匂いがした。
「本日、ヨアヒム様が届けてくださいました」と、回廊の係の人が言った。
殿下が来て、椅子に座り、台帳を引き寄せた。
開いた頁の字は美しかった。行の高さがどこも揃っていて、日付の並びが1日も飛んでいない。今朝の蝋燭も入っていた。『11時20分 礼拝堂 ハルトマン嬢の当番の蝋燭を短いものに替える(燭台の手入れに化ける)』。括弧の中まで、そのまま写してある。
丁寧な仕事だ。ここまで揃えるのに、何日かかったの?
殿下が頁をめくる速さが、だんだん上がった。
めくっては戻り、また前の頁へ引き返して、同じところを二度見る。
指が止まった。
「殿下?」
見せてはもらえないと思ったのに、殿下は台帳をこちらへ向けた。
昨日の頁。9時12分。10時40分。13時。16時55分。時刻が並んでいて、17時の行で終わっている。
その下が白い。
「……17時のあとが、ありません」
「ない」
一昨日の頁も、その前の頁も同じだった。17時までの行がきれいに揃っていて、そこから下が全部余白になっている。定時後の時間が、この台帳から抜かれていた。
表紙の裏に、紙が1枚挟んであった。几帳面な字が2行。
『悪事の記録に当たらない部分は、勤務記録の体裁上、割愛いたしました。原本は綴じ直しに出しております』
割愛。人の夕方から夜までを、こんなに短い1語で切れるんだ。
正しい。
これは悪事の勤務台帳である。悪事をしていない時間は、たしかに悪事の記録ではない。西回廊の窓辺で私が何もしていなかった1時間は、どう書いても悪事の項に入らない。
正しいのに、それを読んだ人の顔から色が引いている。
「殿下。あの、原本のほうは戻ってくるんでしょうか」
「戻らない」
短く言って、殿下は白い余白のところへ手を置いた。置いただけで、何もしない。羽根ペンを持っていないエドヴァルドが、卓の向こうでそのまま動かずにいる。
「殿下。17時のあとには、何を書いておられたんですか」
「書いていた。お前が何時に座り、何時に窓の外を見て、何時に黙ったかだ」
息が浅くなった。
私が何もしていない時間を、この人はずっと書いていたのだ。私はあの音を、その日の悪事の続きを書いている音だと思っていた。ペン先が紙に触れたまま待っている、あの音は、私が何もしていないのを待っている音だった。
そして、それがない。
「殿下、まずいです。この台帳だと、私の夜が空になります」
「そうだ」
「先日の告発状に、23時40分に寮の勝手口とありました。あの時刻、私は窓辺にいました。それを書いてあるのは、この台帳だけです」
「その頁は、いま白い」
清書した人は、悪事を1件も落としていない。蝋燭も墨も鋲3本も全部残っている。
悪事は残り、悪事でないものは消えた。
この台帳は、私を断罪するのにいちばん都合のいい形になった。罪の時刻だけが並んで、そこにいなかったと言える材料が1行もない。夜会で読み上げるには、完璧な出来である。
殿下が台帳を閉じた。閉じた表紙の上へもう一度手を置いて、その姿勢でしばらく動かなかった。
「殿下。書き直せますか」
「覚えている」
「1日ぶんではありません。定時後の全部です」
「覚えていると言った」
回廊の係の人が角灯に火を入れて、行ってしまった。窓の外はもう暗い。清書された台帳が、頁を揃えたまま卓に置かれている。
定時後の1時間が、何日ぶんもまとめて白くなった。




