第16話「誰も来ない休日」
休日の朝、私は9時前に目が覚めた。
やることがない。悪事は第3条で禁じられている。計画も但し書きで禁じられている。書いていないことは行えないと言った人が、書いてしまったせいだ。
仕方がないので、私は自分の部屋の書棚を整理した。
30分で終わった。
次に文箱の中を並べ替えた。却下印の押された残業申請書が、日付の順に重ねてある。いちばん古いのが、最初の1枚。理由欄に『規定に書いてある』とだけ書かれた、あの押印済みの紙だ。
数えてみたら、思っていたより厚い。束の背が、指の腹で押して少しへこむくらいある。
めくっていて気づいた。却下の理由欄が、1枚ずつ全部ちがう。同じ文面が1枚もない。判を押すだけの紙に、毎晩ちがう一行を足す手間をかける人がいるらしい。手間の意味は分からないので、私は束を元の順に戻した。
窓の下の生垣に切れ目がある。休日にあの人が立っていた場所だ。
見た。何もない。
「お嬢様。お茶をお持ちしました」
マルテが盆を置いた。私は書棚の前に立って、背表紙の高さを揃えているところである。揃えていたのであって、窓を見ていたのではない。
「マルテ。この棚、前からこんなに不揃いだった?」
「昨日までは気になさっておりませんでした」
「今日は気になるの」
「さようでございますか」
お茶が出て、私はそれを飲んだ。飲み終わってから、いま何を飲んだのか思い出せなかった。
昼になった。
昼を過ぎた。
休日の1日って、こんなに長かった?
学園が休みの日は、殿下も王宮のお仕事があるはずで、来ないのが当たり前である。深夜2時の花壇に来るほうが、そもそも異常なのだ。異常な人が今日は正常なだけで、これは喜ぶべきことだ。
私は椅子に座って、残業申請書を1枚書いた。
書いてから、提出先がないことに気づいた。
却下されることを前提に書く紙というのは、却下する人がいないと、ただの紙である。私は文箱の蓋を閉めて、また窓のところへ行った。
生垣の切れ目には、やっぱり誰もいない。
そこで、ようやく認めた。
私は朝から、待っている。
9時に目が覚めたのも書棚を整理したのも、生垣を4回見に行ったのも全部そのためだ。待つというのは、前世で私がいちばん軽く見ていた時間の使い方である。待つ暇があったら手を動かせと思っていた。いま私は、手を動かしながら待つという器用なことをやっていて、しかも1件も片づいていない。
鈴が鳴った。
立ち上がる速さで、自分の気持ちが分かってしまった。
玄関に立っていたのは、ヨアヒム様だった。
「休日に失礼いたします、公爵令嬢」
腕に抱えているものを見て、胸のあたりが冷たくなった。台帳だ。あの分厚い一冊が、あの人ではない手の中にある。
「殿下は?」
「本日は御前会議が長く、そのあとに南部の陳情が3件ございます。夜も動けません。こちらをお預かりして、私が回っております」
「その台帳、ずっとお持ちなんですか」
「朝からお預かりしております」
「殿下から、直接ですか」
「殿下は朝から卓を離れられません。それでご相談なのですが」ヨアヒム様は台帳を胸の高さで開いた。「近ごろ殿下のお手が乱れておりまして。日付の並びが飛んでいるところ、時刻が前後しているところがございます。このままでは、いざというときに読めません」
「いざというとき」
「夜会でございます。読み上げるのは殿下ですから、殿下が読める形にしておくのが私の仕事です」
丁寧だった。丁寧で、正しかった。
「清書いたします。ご記録の相手は公爵令嬢ですので、ひとことお伺いを立ててからにしようと思いまして」
私は開かれた頁を見た。殿下の字が並んでいる。速い字だ。馬車の揺れの上で書いた行は、たしかに少し傾いている。
読めなければ、夜会で読み上げられない。読み上げられなければ、断罪はされない。
それは困る。困る、で合っているはずだった。
合っているのに、今朝から生垣を4回見に行った人間の返事としては、どこかが噛み合っていない。
噛み合わないまま、私は口を開いていた。
「お願いします。あの方の字、たしかに速いので」
ヨアヒム様は台帳を抱え直した。抱え直す動きが、封書を胸の内へ入れたときと同じ速さだった。
あの日、扉の外にいたのは封書を届けに来た使いとこの方だけだった。3通目です、と使いに数えて返していたのを、私は階段の途中で聞いている。私の退職は、この方の頭の中でいちばん正確に数えられている。
「3日ほどいただきます。お預かりいたします」
馬車の音が遠ざかって、玄関が静かになった。
窓へ戻った。生垣の切れ目は空いたままで、日が傾いて、切れ目の影だけが長くなっていく。
明日は学園がある。9時に鐘が鳴って、17時にも鐘が鳴る。あの人は明日いる。いるに決まっている。
「お嬢様。本日は、どなたもお見えになりません」
「知ってる」
マルテが茶器を下げていった。日が落ちて、生垣の切れ目は、ほかの暗がりと同じ色になった。




