第15話「借りた鐘を、殿下に鳴らしてみた」
その日の行き先は、王宮の執務室だと朝に伝えられていた。
16時40分。まだ定時内である。扉を開けたら、殿下が机で寝ていた。
腕の上に額を載せて、右手に羽根ペンを持ったまま。書きかけの文字が、途中から線になって紙の外へ出ている。
私は扉を後ろ手に閉めて、そこに立っていた。
寝ている。この人が。
深夜2時の花壇にも朝5時の中庭にもいて、雨の夜は外套を湿らせて、一度も欠けずに私の時刻を書いてきた人が、夕方の机で寝ている。
つまり、寝ていないのだ。今日まで、どこかで少しずつ足りないまま来て、足りない分が全部ここへ落ちてきている。
部屋は静かだった。ヨアヒム様の姿はない。机の右手に、明日ぶんの書類が積んである。左手には、開いたままの台帳。
覗こうとして、やめた。
そこは終業後だから見せないと言われている場所で、いま覗いたら、起きたときに殿下が困る。困らせたいのに、困り方の種類を選んでいる自分が面倒くさい。
さて。
私は悪役令嬢である。目の前に、無防備な王太子がいる。就業時間は残り20分。
いい仕事ができそうだ。
悪事の内容はもう決まっている。王太子の執務の妨害。国の中枢を止める大罪である。うちの職場でいちばん偉い人の手を止めるのだから、規模でいえば過去最大だ。
上着の胸元から、柄のついた真鍮が覗いていた。
手鐘である。
そっと抜いた。手のひらに載せると、思っていたより重い。この重さを毎晩どこへでも持って歩いていたわけだ。
構えて、腕を上げて——そこで、寝顔を見た。
まつげの下が、やっぱり黒い。
いま鳴らせば、この人は起きる。起きたら、たぶん眠ったぶんを今夜のうちに取り返しに行く。私の悪事は、その往復のどこにも傷をつけられない。
20分だけ待つことにした。悪事の開始を20分ずらす。これは職務怠慢ではなく、効果を最大にするための時間調整である。そういうことにしておく。
17時。
時計塔の鐘が、窓の外で鳴った。学園のほうから風に乗って届く音だ。私の1日がここで終わる。
私は手鐘を持ち上げて、一回だけ鳴らした。
澄んだ音が、執務室の天井で跳ねた。
殿下が顔を上げた。目が開いて、こちらを見て、それから自分の手の中を見る。羽根ペンはあるのに、鐘がない。
「殿下。本日の執務、終業」
言えた。ずっと言われる側だったけれど、言うほうってこんなに気持ちがいいものなの?
「……何時だ」
「17時です。第2条、17時に鐘を鳴らす。以後は無効とする」
「それはお前の規定だ。私の時間を切るものではない」
「殿下がお書きになった規定です。書いた方が縛られないというのは、条文としてどうなんでしょう」
殿下は机に手をついて、背を起こした。首の後ろを一度だけ押さえて、それから台帳を引き寄せる。ここで帰る人ではないのは分かっていた。
「16時40分。王宮執務室。上司の執務を妨害。定時内につき有効」
「殿下。いまの妨害は、成立しましたでしょうか」
「20分眠った。そのぶん、今夜の分が後ろへ動く」
羽根ペンが括弧を開いた。中に何を書いているのかは、逆さまでも読める。
『上司が20分眠る』
「殿下。それ、化けていますよね」
「事実を書いている」
20分。会議と会議の隙間に私の悪事を差し込んでいる人の、その日いちばん長い空白がそれだった。
私の悪事は今日も善行になった。けれど今日のは、私が何かをしたのではない。この人にそれだけの空白しか残っていないから、妨害がそのまま親切に見えてしまっただけだ。
鐘を机の上へ戻して、聞くつもりのなかったことを聞いた。
「殿下。殿下の1日は、誰が終わらせるんですか」
「終わる必要がない」
「必要はあります。人は眠らないと死にます。前の職場で、実例を見ました」
自分のことを実例と呼ぶ日が来るとは思わなかった。
殿下は書きかけの行の上へ、新しい紙を重ねた。夜の分の仕事が、また1枚増えたということだ。そして立ち上がりもせずに、こちらを見た。
「お前の鐘は9時から17時までを切る。私にはその時間がない」
「作ればいいじゃないですか。規定を1行足すだけです。殿下、得意でしょう」
「誰が書く。自分の勤務を自分で管理できるなら、上司は要らない」
正論である。正論なのに、いま私が言われているのではなくて、この人が自分に言っている。
窓の外が夕方の色になっていた。学園の鐘はもう鳴り終わって、王都のどこかの鐘も鳴り終わって、この部屋にだけ終わりが来ていない。
「では、どなたが殿下の上司なんですか」
「私に定時はない」




