第11話「朝5時の花壇に、先客がいた」
残業申請書は、毎晩1通ずつ出している。朝には却下されて戻ってくる。理由欄の文面を毎回変えても、印は同じ位置に同じ角度で押されていた。
夜が駄目なら、朝がある。
17時のうしろには鐘がある。朝の側には、鳴るものが何もない。
それに朝の5時は、規定ができる前から私が使っていた時間だ。靴を隠したのも中庭を歩いたのも、あの時間である。抜け道を見つけたのではなくて、抜け道のほうが先にあった。
というわけで私は、かまどの灰を紙に包んで持ち出した。
東棟の花壇。深夜2時に私が掘り返して、土だけ耕して帰ったあの二列目だ。土に灰を撒いておけば、花の色が褪せる。当番の子は理由の分からないまま、しおれた花壇の前に立つことになる。
我ながら陰湿だ。悪役令嬢として上等な仕事である。
「早いな」
包みを取り落とした。
花壇の向こう、低い石の縁に殿下が腰かけている。足元に角灯があった。火は落ちているのに、硝子はまだ曇っている。さっき消したばかりの曇り方だった。
空はもう白みかけていて、学園の鐘はどれも鳴っていない。
「殿下。第1条は9時からです。いまは5時で、就業時間ではありません。ということは、上司のほうも勤務外のはずなんですけれど」
「知っている」
殿下はそれだけ言って、口元へ手の甲を当てた。
欠伸だった。
「いま、欠伸をなさいましたね」
「した」
認めるんだ。というか王太子殿下って、人前で欠伸をしていい立場なんだっけ?
私はしゃがんだまま、その顔を下から見上げていた。目の下の沈み方が、休日の東屋で見たときより濃い。学園の朝の光は正直で、隠してくれるものが何もない。
「お休みになっていないんですか」
「灰を撒くのだろう。続けろ」
「殿下、止めないんですか。灰ですよ、これ。撒いたら根がやられて、花が全部しおれるんです」
「9時より前は規定の外だ。止める根拠がない」
根拠。こんな時間に、誰に向かって根拠の話をしているの?
仕方がないので、私は撒いた。指の隙間から灰が落ちて、土の上へ薄く広がっていく。
撒きながら、いやな予感がした。
灰は土の酸を抜く。庭師が毎年そう言って、秋になると根元へ撒いている。虫も来にくくなる。つまり私はいま、この列の花だけを丈夫にしているのでは。
「殿下。これ、悪事として成立していますか」
「灰を撒いた。5時11分」
羽根ペンが動いている。膝の上に台帳。書く速さが、いつもよりほんの少し遅い。
「その括弧、消していただけませんか。土の手入れに化ける、とか書いておられますよね」
「事実だ。書かない理由がない」
出た。
私は花壇の縁に腰を下ろして、自分の手のひらを見た。灰だらけである。これで朝の当番が来たら、彼女はまた礼を言う。
鐘は鳴らなかった。
17時なら、この時点でもう鳴っている。澄んだ音がして、無効だと言われて、私は土を払って帰る。その手順が、この時間には無い。
「殿下。終業の鐘は、どうなさるんですか」
「鳴らせない。深夜2時なら鳴らす。あれは前の日の続きだ。17時から数えて超過になる」
「では、いまは」
「昨日、お前は一度帰った。終わるのは、お前が帰るときだ。終わった日に、もう一度終業は打てない。今朝はまだ始まってもいない」
殿下は折り目のついた紙を広げて、いちばん下へ一行足した。乾いていない字が、朝の光でてらてらしている。
『就業時間外の悪事は罰さない。ただし上司が代わって記録する』
「穴を塞がないんですね。私が5時に来るのは、もうお分かりなのに」
「塞ぐと記録が切れる」
切れると困るらしい。困る理由は言わない。
私は灰の紙をたたんで、ずっと訊きそびれていたことを訊いた。
「厨房の塩は、どこから見ておられたんですか」
「4日前の1時半だな。あのとき私は中庭にいた。厨房の灯りは渡り廊下から見える。お前が皿を持ち上げて、戻すまでで7分だ」
7分って何。私の皿の上げ下ろしに、どうして分の単位がついているの?
そこで、台帳の頁を思い出した。『一昨日 5時 中庭 ハルトマン嬢の靴を隠す(磨いて返す)』。あれを私は、この人がどこかで聞きつけて書き足した記録だと思っていた。
違う。
5時の中庭に、この人は先にいたのだ。私が来る前から、そこで朝を待っていた。書き足したのではなくて、見ていたものをその場で書いただけ。深夜2時の花壇も、1時半の厨房の灯りも、全部そうやって並んでいる。
鐘が鳴った。始業のものではない。寮の起床の鐘だ。
殿下が立ち上がって、角灯を提げた。これから王宮へ戻って、7時半に陛下で、それから学園。表の行はひとつも消えていない。
「殿下。昨夜は何時にお休みになりました」
「明日も9時からだ」
答えになっていない。答えになっていないのに、この人は嘘をつかない人なので、つまり答えられる時刻がないということになる。
私の悪事には、始まりと終わりが決まっている。鐘が鳴り、印が押され、台帳の行が閉じる。
規定が切ったのは、私の時間だけだった。




