第10話「何もしない1時間に、監督がつく」
行き先は朝のうちに教えられていた。王宮の西回廊、突き当たりの窓辺。
17時の鐘が鳴って、私はそこへ行った。窓の下に椅子が2脚と、小さな卓がひとつ。卓の上に角灯。ほかには何もない場所だった。
殿下はもう座っていた。膝に台帳。手に羽根ペン。
私は自分の帳面を抱えていた。表向きは学園の予習用で、後ろの3頁は来月の悪事の草案である。17時以降に悪事はできないけれど、草案を清書するくらいなら罰は当たらない。
「持ち込みは」
「学園の帳面です。予習用ですので、悪事の業務とは関係ありません」
「後ろの3頁を見せろ」
「……まだ何もしていません。開いてすらいないんです」
「膝が向いた」
膝はこの人の中で、動かぬ証拠として確立してしまったらしい。
私の帳面は卓の端へ置かれた。私は空の手で椅子に座った。
座って、1分が経った。
長い。1分って、こんなに長かった?
前世で私がいちばん苦手だったのは、手が空く時間だった。会議が早く終わる。次まで20分ある。あの20分が怖いので、私はいつも席へ戻って何かを始めた。始めれば終われなくなって、結局その日も遅くなる。手が空いているという状態が、そもそも落ち着かないのだ。
膝の上で指を組んでみる。公爵邸の東屋でやったのと、同じことをしている。
窓の外では、王宮の庭に西日が長く伸びていた。砂を敷いた道の上に木の影が落ちて、へりだけがぼやけている。
隣で羽根ペンが動いている。
今日の悪事は16時55分に終わっていた。花壇でも掲示板でもなく、今日は図書館の返却棚だ。ネリー・ハルトマンの借りた本を奥へ押し込んで、ついでに棚の並びを番号順に直してしまった例のやつである。書かれるべきものは、その場で書かれたはずだった。
なのに、まだ書いている。
音が止まらない。1行ぶん進んでは、少し考えるみたいに止まって、また進む。
覗こうとしたら、殿下が頁の角に指を置いた。
「終業後だ」
「終業後は見てはいけない、という規定でしたっけ」
「規定にはない。だが見せない」
つまり運用ですね。声に出す前に、返ってくる答えのほうが先に分かってしまった。
「殿下。ペンを削りましょうか。私、刃物の扱いは得意です」
「いい。ペンは自分で削る」
「では日付だけでも書かせてください。字は速いほうです」
「仕事ではない」
また、それだ。
仕事じゃないなら何なんですか、と訊いてしまいたい。訊いたら負けな気がするので訊かないけれど。
この人は仕事ではないものを、仕事の道具だけで抱えている。台帳と、羽根ペンと、王印。ほかに持っているものがない人が、あるものだけで何かをしようとしている。
手伝いを断られてしまったので、私は本当にすることがなくなった。
窓枠に肘を置いて、外を見る。
鐘楼の屋根の縁から日の色が引いていって、灰色になっていくところだった。庭の奥から鳥が帰ってくる。数えるほどでもない数で、ばらばらに、それぞれの木へ入っていく。どの木に入るかは、それぞれもう決まっている。迷っている鳥が1羽もいない。
遠くで、王都のどこかの鐘が鳴った。学園のものではない。誰かの終業の音だ。
前世でも今世でも、この1時間の使い道を私は知らない。
知らないまま、私は窓の外を見ていた。
エドヴァルドの羽根ペンの音が、後ろで続いている。
紙を擦る音というのは、思っていたより種類がある。速く書くときと、考えながら書くときで音が違う。止まっているときも完全な無音にはならない。ペン先が紙に触れたまま待っているらしい音がする。
そういうことを考えて——いや、考えていない。
私は何も考えていなかった。
気がついたら、窓の外が暗くなっていた。
「終わりだ。今日はここまでにする」
台帳を閉じる音で、私は椅子の上で背中を起こした。首の後ろが少し固い。西日はもうない。角灯に火が入っていて、それを入れた瞬間を私は見ていない。油の焼けるにおいが、卓の上にたまっている。
「終わり、というのは、いま何時のことでしょうか」
「18時だ」
1時間。
さっきの1分はあんなに長かったのに、そのあとの59分がどこにもない。落とした覚えもないのに、鞄の中から消えている。
帳面が返ってきた。後ろの3頁は開かれていなかった。角が折れたままだったので、たぶん本当に開いていない。
「明日も同じ時刻だ。場所は朝に伝える」
うなずいた。ほかに返せる言葉がなかった。
「今日は、何もしていなかったな」
褒められたのか叱られたのか分からない声だった。私が答えを探しているあいだに、殿下は角灯を持って歩きだしている。
回廊を出るまで、私は自分の手のひらを見ていた。
土もついていない。墨もついていない。1時間ぶん、何にも使わなかった手だ。
その1時間が、どこへ行ったのか分からない。




