(メイン) -(4)
――もしかすると、男娼にとってそれが最も辛い質問だったのかもしれない。
若者は顔を顰めて、その顔をつっと医者から背け、無意識に胸の辺りのシャツを掴んだ。
「出会った時にこんなキスをして、手を繋いだり、あるいは腕を組んだりして、歩くだけでいい。一緒にメシを食って、……セックスはしなくてもいい、抱擁とキスをして別れても、それだけでも構わない、という人間は、いくら払うんだ? 二割引くらいにはなるのか?」
「……それも、割り増しだ」
「――」
男娼は、シャツを掴んだまま、絞り出すような声で云った。
「何故って、訊くか? ヤブ医者」
「ああ、聞いてみたいな」
顔を背けたまま、横目に医者を見て男娼が云い、医者は、大きく頷く。
「――そういう『仕事』が、いちばん難しいからだよ」
「……」
「俺みたいなバカには、一番な」
やはり、若者の声は辛そうに掠れている。
医者は、こくっと頷き、「そうか」と云った。――それ以上のことは云わなかった。
「……いい加減、買わないんならとっとと離れてくれないか。マジで時間の無駄。仕事もしてないのに、一気に疲れてきた――」
「若いのにヤワなやつだな」
からかう声で医者は云い、ついっと視線を下げた。
先ほど壁にたたきつけた、男娼の腕、手に視線が向かう。
医者は身を屈めて、足下のバッグから小型の端末を取り出し、パワーをオンにした。
それから、内ポケットを探りつつ、視線は端末に向いたままで男娼に問う。
「終日料金ならいくらだ」
さらっとした声で訊かれて、男娼は首を傾げつつ、小さな声で数を云った。
医者は、そうか、と云って、内ポケットから何かのケースを出し、その中から一枚、磁気カードを取り出した。
端末に差し込んで何事かの処理をし、カードを取り出すと、端末のパワーを落としてバッグに戻す。
何をやっているんだ、と若者は、戸惑った顔をしてその様を見ている。
「ほら」
軽く云って、医者はそのカードを男娼に差し出した。
戸惑った顔をしたまま、男娼はそれを手に取りはした。――小切手だ。印字された金額は、「終日料金」である。
「あんた……」
と表情と同じく戸惑った声を出して医者を見る。
医者の表情が、やけに意地悪ににやけているように見えて、若者は顔を顰める。
「施しならいらねえぞ。いくら疲れてたって、まだ『閉店』はしない」
「何だと? おまえ、随分俺を見損なったことを云うじゃないか」
「――」
「俺が、どこでメシ食ってる医者だと思ってんだ? おまえみたいなのをのべつまくなしに哀れんでて、この街でこの商売は出来やせん」
医者が大げさに怒った顔を作って云ったので、男娼は少し狼狽えた。その後、やっぱり医者は、「おまえバカだな」という声と顔で男娼に説いた。
男娼は、むっつりした後で、今度は戸惑いの表情を浮かべて、手にしている小切手と医者の顔を交互に眺めた。
「んじゃ、何……、マジで、買うの」
「売らないのか?」
「いや……」
「部屋はおまえが選べ。俺は、ここに住んでるからホテルをあんまり知らん」
「――」
「しかし、俺の家は、ここからだとちょっと遠いんだ。まあ、終日料金出したんだし、おまえが、本物の病院で『お医者さんごっこ』したいってんなら、来てもいいぞ」
再び腰を屈めて今度はバッグを持ち上げつつ、医者はそんなことを云い、くるりと踵を返した。
男娼は、思い切り顔を顰め、口を尖らせて云う。
「結構だよ! あんたがお医者さんだと、ごっこじゃ済まなさそうだもんな、解剖でもされそうだ」
「云うじゃないか」
くく、と医者は喉を鳴らして、明るい通りに向かうべく歩く。
男娼は、……慌ててそれを追いながら、もう一度訊く。
「おい、マジで俺を買うの?」
「買っちゃいかんのか」
「……」
「俺相手にするのが、恐けりゃ帰れ。それこそ、今の小切手は施しと思え」
くす、と笑って振り返りもせずに医者はあっさり云う。
男娼は、むっとして眉を寄せた。
きっと、若者がそんな顔をしているだろうことを感じ取って、医者は笑っている。
この若造、利口ではないが、やっぱりそれほどスレてもいないし、「正直」なやつだな、と考えている。
何故なら――、小切手はさっさと渡した。こちらはハッキリした意思表示はしていない金だ。それを差し出されたのだからすぐさま受け取り、先に目を逸らして動き始めたのはこちらなのだから、これ幸いと反対方向に逃げてしまえばいい。この医者が、男娼の同居人と知り合いであることを考え、苦情の可能性を考えても、……意思表示のハッキリしない金に「施しは要らない」なんて言葉は出なくてもいいのじゃなかろうか? 黙って「施し」を受けておいて、逃げてしまえばいいのに。
ただでさえ、――金は貰わなかったとしても、ずっと、この若者は、この医者を、どこか恐れてもいたのだから。
それを、金を受け取った以上は、馬鹿正直についてくる。
ちらりと肩越しに振り返り、やっぱりふて腐れた顔をしている男娼に、小さく笑う。
そんな医者に気付かないまま、男娼は馬鹿正直についていく。
医者は前を見て歩きながら、軽い口調で云った。
「俺はその気が無いから、まあ、雑談程度に思えばいいが」
「――なんだよ」
「こっちが入れるんなら、あの値段だったんだよな。おまえが入れるんだったら、どうだったんだ?」
「……その答えによっちゃ、あんた、俺に突っ込まれてもいい訳?」
「俺にその気は無いと云っただろ。答える気が無いならいいさ、雑談だ」
意識して皮肉な声で若者は云ったが、医者はあっさりとはぐらかす。男娼はまた、ふて腐れた。
ふて腐れた後で、何となく戸惑った独り言口調で呟く。
「つっても、……今、あんたが『どの気』ならあるんだか、判んねぇよ」
「……」
「それこそ、何されんだか判んねぇ。何が入ってんだよ、往診帰りのそのバッグ……。正直云えば、恐いってのはマジだ」
「本当に正直なやつだ」
くす、と医者が苦笑する。
「まあ、俺も、何してやろうかってのは殆ど決めてないんだが」
殆ど?と男娼が、眉を寄せつつ首を傾げた。
医者は、足を止めて男娼を振り返り、ちらっとその手を見下ろした。
見下ろした後で、また前を見て歩き始める。
「おまえ、どっちにしても今日は、男の客しかとれなかっただろ。それも、おまえが突っ込まれる方」
「――何でだよ」
ぶすっとした声で男娼が問うと、医者はまた、ちらりと男娼の手の辺りを眺めた。
そこに視線が来ているのに気付いた男娼は、同じくちらりと自分の手に視線を向ける。
「……抱きつかれて爪の跡が残るのを喜ぶようなのはOKだろうが……。今日は、女の客を取る権利がないとまで云えるんじゃないのか? それじゃ」
「――」
「マゾヒズムの気がある客ならまだしも」
医者が見ていたのは、さっき、堅く握り拳を作って壁に叩きつけた手だった。
壁に叩きつけた傷もあるけれども、それよりも、手のひらに爪が食い込んだ傷の方が深くて、血が滲んでいるのだった。
それはつまり、自分で握りしめた拳で流血するくらいの爪が伸びているということで、その手で、女客を相手にするつもりだったのか、ということだ――。
「おまえ、やっぱり二流だな。プロの意識あるのか?」
大げさな説教口調―まるで上司のような―で医者に云われて、男娼は、チッ、と舌を打つ。
男娼が医者を連れてきたのは、豪華でも派手でもなく高くもない、しかし、とことん安い訳でもない、ごく普通のホテルだった―と云っても、清廉潔白に真っ当な「宿泊施設」としてのホテルでもない。この街に存在するのだから―。
性処理だけを望む客だったら選ばない、連れてくることもない、それなりに清潔で、しかし寝るのに必要なもの以外の無駄は殆どない、そんな部屋だ。
ルーム・サービスは無いが、部屋の中に小型のクーラがある。そこに、酒や簡単なミール・パウチが入っているので、部屋の中央に、テーブルと椅子があった。
部屋に入ったときと寸分違わぬ姿で、その椅子に座ってタバコをふかしていた医者は、さっき「一気に疲れた」などと云っていたが、本当にそれだけでああも脱力しているのなら、随分やわな若造だ、と、腕を投げ出してベッドに寝そべっている男娼を眺めて考えていた。
部屋に入って、椅子ではなくベッドに座り、そのままずっと、若者はベッドから離れていなかった。最終的に、でれん、と四肢を投げ出して、ああやって、横たわっている。
だが、思い出してみれば、酒場を経営している友人に呼ばれてこの若者を診たのは、そんなに遠い昔のことではない。ついこの間のことだ。あの後、続けて呼ばれなかったということは、特に異変が無かったからだろうが、怪我の具合を考えてみると、まだ本調子にはなっていないのかもしれないな……、そんなことを思い付く。
若者が、だらしなく投げ出した腕から連なる手、そのうち片方の手のひらは、消毒された後、透明の絆創膏シートで覆われ、爪も短くなっていた。
この街だけは、タバコというものがしぶとく生き残り、こんな小さなホテルの一室にも、当たり前のように「灰皿」がある。医者は、口元でちびたタバコをその灰皿で消し、自分のバッグを開いて、中身を一つ取り出した。
片手で握り込めるが、手の中に隠れてしまうほどではない、その程度の大きさの筒状の物体を、こともなげに、絶妙のコントロールで、若者の頭の横に投げる。
うとうとしかけていた若者は、耳元に聞こえていた音で、ぱちりと目を開き、「何だよ」とその物体を手に取った。
透明の、強化プラスティックで出来た筒、……太めの試験管か、これは?と男娼が首を傾げる。
男娼が医者に目を向けると、部屋の灯りをつけないままだったので、暗がりの中で医者は微かに笑っていた。
「基本料金しか払ってないから、俺をケチだと評価されてしまうと困るからな」
「もう遅ぇよ。道で喋ってる間、ずっとあんたのこたケチだと思ってた」
ぶすっとした声で男娼が云うと、医者は、はは、と軽く笑った。
「チップ代わりに見てやろうか」
「は?」
「精子」
さらっと医者は云い、若者は頬を染めて顔を顰めた。
肘をついて上半身を起こし
「要らねーよ!」
と試験管を、医者にぶつけてやるつもりで投げ返す。
医者は、飛んできたチューブをあっさり受け止めて、「そうか?」ととぼけた声を出す。
「勿体ない。結構いい値段するんだぞ、検査」
「要らねーよ」
「おまえはまだ若いんだ。将来のこと考えれば、今のうちに見といた方がいいと思うんだがなぁ、俺は。この商売やめて家庭持つことになった時に、無精子だったらショックじゃないか」
さらりと医者は云い、若者は顔を顰めてごろりと体勢を変え、医者に背を向けた。
「余計なお世話だ。――俺には、そんな将来なんか無い」
意識して素っ気ない声で、若者は云った。
医者は、表情を変えずに聞いている。
「俺はID無いからな」
「そうか」
呟く声で云った若者の言葉に、医者はあっさりと頷く。
これもきっと、この街の医者だからだ。そんな人間を、いちいち気にしていたら、この街でこの商売は出来ない、そういうことだ。
医者は、クーラに近寄って水を取り出した。水だけは無料だということだから、ただ喉が渇いただけなら、それで良い。
一口飲んで苦笑いが浮かぶ。ミネラルすらも入っていない、純粋な水だ。人間が使う「水」という言葉にはそぐわない気がしてそんな表情になった。H2Oと表現する方が相応しいと思う。
「……あんたが、ルーディと友達ってのが、何かちょっと、判んないとこあるな」
肩越しにちらりと医者を見て、男娼が呟いた。
医者は肩を竦めて返答する。
「確かに、『友達』なんていう表現をしたら、俺も背中が痒くなる」
若者がくすっと笑って体勢を変え、医者の方に向き直った。




