(メイン) -(3)
「……だが、所詮そんなものだと考えれば、商売の障害が減るんじゃないか? 恥ずかしくなんかなくなるだろう、場所も移動しなくていい。客は、確実にここに『店舗』を構えているおまえの前に、列を作って順番を待てばいいんだ。今、おまえが一晩で何人の客を取ってるんだか知らんが、それだと、数が稼げるじゃないか。口だけで商売出来るぞ?」
「――」
今度は、男娼が不快そうに眉を寄せた。それに気付きつつも、医者は素知らぬ顔でつらつらと続ける。
「おまえはまだ若いんだから、『薄利多売』の方を選んでもいいんじゃないか? それとも、おまえ、それは趣味と実益か? 自分に快感が無いのは嫌か。それじゃ、やっぱり高級品じゃないか、『サービスを提供』するのはおまえなのに、客の方がおまえに『サービス』しなきゃいけないんだから。それで金取るのか?」
「うるせえよ、あんた!」
耐えきれない、というふうに、男娼が叫ぶ。
今度は、怒りの色が滲んだ顔で、医者を睨みつけた。
医者は口を閉ざし、――ふ、と笑う。
……少し前までの自分なら、馬鹿正直に反芻し、それもありか、などと考えていたかもしれない。だが、今の自分は、そんな屈辱的なことを、絶対に選べない。
男娼は、「プライドが傷ついた」という顔をしている。
「ヤブ医者はそんなこと考えるのかもしれねぇけどな! バカにすんなよ!」
「俺は、アドバイスしてやったつもりだったが」
そんなことを嘯くと、男娼はやっぱり、怒った顔をして続ける。
「ふざけんな! 俺は、Samenのバキューム管か!」
云えば云うだけ腹が立ってくるのか、最早、顔は紅潮を通り越して青ざめそうになっていた。
医者は、拳を口元にあてて、くく、と小さく喉を鳴らした。
……「便所」という表現は出てこなかったか、と考えている。口にするのが嫌だったという感情的なものなのか、本当にただ単にその表現が出てこなかったのか、別にどちらでも良いが。
どちらにしても、確かに、「便」ではないのだし。
「ああ、そうか、おまえ、女も相手にするんだったな。……女相手だと、粘膜同士の接触があるから、そりゃナンだな。女の場合、客の側が外だと下着を脱げない羞恥もあるし、そりゃ判る」
「ンなこと云ってんじゃねぇよ!」
あけすけな医者の言葉に、もう恥ずかしさとかは湧いてこない。
若者は、本当は殴りつけたい気分になっていたのだが、それを実行する前に、「自分は、もしかして警察が出てくるような厄介ごとを起こす訳にはいかない」ということと、「この医者が、ルーディの知り合いのことを考えたら、あいつに迷惑がかかるのかもしれない」ということが頭を過ぎり、固く握りしめた拳を、もたれている壁に叩きつけるだけにした。
……男娼の憤りを、正面から受け止めて、なお医者は表情を変えない。
もうそれは、医者のそもそもの「顔」ででもあるのか、口の端が微かに上がり、腕を組んで平然と、男娼を眺める。
男娼は、その表情を見ていると、いよいよ腹の中が沸騰しそうな気分になってきて、思い切り拳を握り、唇を噛みしめた。
――だが、ふと若者の目が、訝しげに細くなる。
医者は、ずっと気分が悪くなる薄笑いを浮かべているのだが、……その目の光は、やけに、冷めているのだった。
ぞく、と背筋が寒くなり、男娼は小さく震えた。
蛇に睨まれた蛙、ということわざは、こういう時に使うんだろうか――、ずっと昔、学校で習ったことを思い出したくもないのにふと思い出した。
男娼の目つきが、また怯むものに変わったので、医者は、真っ正面から目を見るのをやめてやった。ほんの少し視線を下げ、頬骨の辺りを見ている。
「ふん、なるほど。おまえにはそこまでの屈辱だから、『嫌だ』というのは今ので充分判った。だから、割り増しだっていうのはな。……なりふり構っていられないって程、金に困ってもいないわな、今は」
「――」
医者は、鼻を鳴らして笑い、そんなことを云った。
男娼は、小さく、俯くように頷いて、きゅっと眉を寄せた。――「金持ちの誰かさんに世話になってるんだから、衣食住足りてるんだろう」それを責められた気がしたので。
……医者本人は、ちょっとからかった位の気分しかなかったが。
「だが、誰かに見られるのが困るっていう理屈は何でだ?」
「あんた、そんなにココでヤりてーのか? だったら、素直にそう云えよ、三倍出せばやってやるよ」
「三倍? またふっかけるもんだな。……俺は、何でだって訊いてるだけだぞ」
くす、と医者はからかうように笑い、男娼がふて腐れる顔を見ている。
「俺は、時間と金が勿体ないから、さっさと終わらせるのに、ここだとどうなるのかって訊いてるんだ。俺はそれで『構わん』と云ってる。おまえが『困る』という納得出来る理由を聞けない以上は、俺は値切るだけだ」
「今、こんなことやってる時間は勿体なくねぇのかよ。素直に基本料金払って、そこら辺の安ホテル入ってりゃ、今頃、とっくにベッドイン出来てんだぜ」
精一杯強がって云い、男娼も「ふん」と鼻を鳴らすと、医者が、「ああ…」と息を吐きながら苦笑し、……首を左右に動かして、真っ暗な路地を見渡した。
「――で、今のあいだ、全く誰も来なかったな」
「……」
皮肉めいた声で医者が云う。男娼は、ぐ、と息を飲んで顔を顰めた。
「……俺が値切るだけじゃなく、おまえはおまえで、『セールス』する気は無いのか?」
男娼は必死に考える。この医者の理屈を、何とか拒める理屈は浮かんでこないだろうか。
――ルーディという人に芽生えさせてもらった、わずかながらの自尊心を、守れる理屈は――。
浮かばなかったら、自分はこの医者に、「犯される」のかもしれない。「買われる」のは買われるのかもしれないけど、それは、やっぱり、心まで売るようなことになる気がする。
この医者の理屈は、絶対に、受け入れられない。
……医者は、必死に何か考えているらしい若者を、黙って見ている。さて、何を云うだろう。
いかにして、この若者は、自分の精神と肉体を、守るだろうか。
どうやって守るような若者なのだろうか。
薄笑いを浮かべて、医者は若者を「観察」している。
腐れ縁が世話をしているこの若者は、一体どういう人間なのか?
――最初から、医者は全て、その好奇心だけで、この若者を挑発していた。
男娼は、ふと俯き、さっきまでの興奮した様子や、拗ねた様子は見えない、ぽつぽつと呟くような声で云った。
「……あんたにはな、皮膚と皮膚、皮膚と粘膜の接触だけかもしれないけどな」
「――ふん?」
「セックスなんか、ただそんだけのことかもしれないけどな。……Samen出せばそれっきりか、それとも、いっそ交尾なのかもしれないけどよ」
俯いていた顔をゆっくり上げて、……男娼は、何だか「辛い」というような顔をしている。
――それはまるで、医者を哀れんでもいるように見える表情だった。
「……でも、俺を買ってするセックスが、"make love"の客――人間だって、居んだよ」
「――」
医者が、ぴくりと目を狭める。
「仮に、ここであんたが本当に三倍出したとしてだ。……そういう客が、俺がてめーのコック銜えてる場面見たら、どうだよ。この先、三倍どころじゃない金呉れるかもしんねー常連、逃すかもしんないだろ」
時々、深い呼吸を交えながら、若者は、何とか落ち着かせた声で云う。
医者は、微かに、――冷笑や嘲笑ではない、笑みを口元に浮かべた。
「あんたと違って、そういうやつの方が、金払いはいいんだぞ。――それに、ただ金のことだけなら、いいけど、……それで俺がひでー目に遭うことも、あんだぞ」
「……こないだのはソレか?」
「それは、違うけど……」
……似たような災難は、あったことがある、と男娼は素っ気ない声で云った。
「――それだけじゃなくて、もし、そいつが、き――」
若者は、何かを云いかけたが、途中で止めた。
医者が「もし、何だ」と問うたが、「いや、何でもない」と首を振る。
男娼は
「傷つくことがあったら、申し訳ない」
などと云いかけたのだが、そんな理屈、この医者に云っても嘲笑われるだけかもしれない、と思って止めた。自分で、何をきれいごとを、と思いもしたので。
医者は、
「成る程」
と息を吐きながら云って、大きく頷いた。
男娼は戸惑った目をして医者を見た。さっきまでと違って、雰囲気が、少し柔らかくなっている。目つきも、最初声を掛けた時と同じ、子供っぽい悪戯心を秘めたようなもので……。
説得、出来たのだろうか。男娼はそんなことを考えている。
「――俺、だから……、ホントは、マジで、ここでやるのは、嫌だ」
医者は、若者が「いきがる」のを止めて、本音を呟いたのが判ったので、ふっと笑う。
「五倍出すと云ってもか?」
軽く云うと、若者はコクリと頷いた。
「あんた、俺のことバカにしてんだろ」
「……バカにしてるというか、まあ、頭が良くないとは思ってるな」
簡単に医者が云うので、男娼は拗ねた顔を見せた後で、力無い苦笑を浮かべた。
「もう、それはそれでいいよ。そりゃ、医者みたいなインテリからすりゃ、俺はバカだ。――だからさ」
「何だ」
「これ以上の『商談』は、勘弁してくんねーか。――俺、金と引き替えに、そこまでマジでヤなことやるの、もう嫌なんだ」
「――そうかい」
「ヤリてぇんなら、金なんか要らないから、それこそ麻酔でも打って力ずくで犯せよ。俺は『サービス』なんか出来ねーけど、あんたにとっちゃ、どうせその程度のことなんだろ」
医者に対して意趣返しの気持ちがある訳では無い。最早、本音で男娼はそう云った。
「商談」でこの「取引」をOKにする気は、全く無いのだから、それでも医者が食い下がるつもりなら、いっそ力ずくで云うことを聞かせればいい、という気分だった。
医者は、くく、と笑う。
成る程ね、と今度は、声に出さずに頷く。
これは、この若者がもともと持っていた自尊心なのだろうか。それとも、腐れ縁の悪友が、鍛えてやった自尊心なのだろうか。そんなことを考える。
利口ではないが、全く何も考えていない訳ではないな、そんな評価を、医者はしていた。
医者はコートのポケットに手を突っ込んで一歩踏みだし、さっきと同じように、若者の鼻先に顔を持っていく。
一気に疲れた、というふうにだるそうな顔をして、壁にもたれていた若者は、一瞬目を見開き、肩をいからせ、体中を強ばらせる。そして、ぎゅっと唇をひき結び、同じくぎゅっと目を閉じる。
医者は、くすりと笑って顔を傾かせ、男娼の唇に、すっと軽く、自分のそれを合わせた。
すぐに離れて、今度は頬にキスをする。
――そして、そのまま一歩後ずさった。
体の前面にあった気配、空気の圧力が薄くなったので、男娼が目を開けて「え」と呟く。
医者は、最後の「商談」にあたるところの意地悪な質問を投げた。
「……これだけならどうなんだ?」
「――?」
「おまえ、どこの皮膚の接触が問題なのかって云ったろ。……今みたいなキスは、別に金要らないんだよな?」
「……確かに、そう云ったけど…」
戸惑った顔をして男娼が頷く。
「それだけでいい、って客には、どうするんだ?」
「――」
「おまえにキスして、おまえからキスされるのだけが、最上のセックス、――make loveだと思ってる人間からは、いくら取るんだ?」




