(前菜) -(2)
女は、その中身を飲んで、殻を医者に渡すとベッドに横たわった。
「そんなに苦くなかったよ」
「そうか? 俺は飲んだことが無いから、知らない」
平然とした顔で医者は云う。女は、くすくすと笑って、「そりゃそうだね」と云った。
確かに、この医者がその薬を飲んだことがある訳じゃない。飲んだことがある女から評判を聞いたことがあるだけだ。だが、本物の堕胎薬がとてつもなく苦いらしいのは本当だ。将来、この女がそれを口にする可能性を考えれば、そう云っておいた方がいい。
それで、今日を思い出して「あのときと味が違う」と思ったとしても、「苦いとちゃんと云った医者は実際に飲んだことがない」のだから、不思議には思うかもしれないが、医者を疑うところまでは行かないだろう。過去の記憶と現在の感覚が一致しないのに、医者の言葉と現在の感覚は一致する。そんな奇妙な状況にほんの少し陥るだけだ。
視覚と聴覚と嗅覚は―感覚器官が正常であれば―同じ場所にただ居れば他人とほぼ共有出来るが、味覚と触覚は、本人が積極的に情報を得ようとしない限り、他人と共有することが難しい。自分が得た感覚が、他人と同じかどうかは、分からない。まして、男である医者は、堕胎薬など過去にも将来にも一回も飲む筈がないのだから、今の医者の言葉と味覚が一致しないのが真実なのか、将来味わうかもしれない薬と今飲んだそれの味覚が一致しないのが真実なのか――結局、今自分が飲んだものはなんだったのか、本当のところは、分かりっこない。
この女がそれを口にするときには、苦くない薬が開発されているかもしれないし、それよりももっと――将来、この女が、堕胎薬など飲まなければいい、ホルモン剤などを必要としない健康的生活を送ることが出来ればいいだけの話だ。
医者は、ベッドに寝そべっている女へ
「そうやって、しばらく安静にしてるんだな」
と尤もらしい適当なことを云った。
「しばらくって?」
「最低、今夜一晩は大人しく寝てろ。出来たら明日一日も、食事と用足し以外は寝てる方がいい。様子を見て、頭痛や目眩、腹痛がほんの少しでもあるようなら、横になれ」
「……分かった…」
「それから」
「何?」
医者は、ポケットに手を突っ込んで、静かに女を見下ろす。
「お上に通報はしないから、それは安心しろ。君、やばいクスリをやっているだろう」
医者があっさりした声で云うと、女は表情を強ばらせた。
「……まだ、中毒というところまでは行ってなさそうだが」
「――」
「将来、母親になるつもりがあるんなら、今のうちにやめろ」
別に、説教がましい口調ではない。淡々として素っ気ない声で医者が云う。
だが、そもそも心からの忠告をするような素地…「慈悲」がある訳でもなく、こんなことを云うと次の「診療」=「営業」に支障がある可能性を考えれば口にするだけ損なことも分かっているこの医者が、どんな口調であれ、こんな忠告をする方が珍しい。
女は、辛そうに顔を顰めてそっぽを向く。
医者は、ふう、と息を吐いて、やはり素っ気ない声で続けた。
「チューブで体外妊娠の方を選ぶにしても、君本人の卵巣が健康であることに越したことはない」
それでも、こんなことを云ったのは、今の診察が妄想に由来するものだとしても、ほんの微かに、この女の「女性」あるいは「母性」が垣間見えたからかもしれない。
今の世の中では、子供は「作る」のが常識であって、「出来る」ことの方が割合として少ない。
……それが妄想にしろ、この女は「出来た」ことが「嬉しい気がした」と云った。授かった喜びを感じられたのなら――この女は、将来、母になる素質があるということなのではないだろうか。
だから、「なんだかんだ云って医者」として、忠言が、つい口をついて出たのかもしれない。
それが自分の得になることはないのが分かっているので、余計なことを云ったと、医者は後悔もしていたが……。
テーブルに近づいて、器具や薬品の類を片付けながら、医者は雑談の口調で云う。
「ダンナは何をやっているんだ?」
「……『貴金属』のブローカー。テラから出ることもしょっちゅうだから、アタシ、ここで殆ど一人…」
「ダンナは優しくないのか、浮気相手は優しくても」
「……そんなこと、無いけど。ただ、寂しくってどうしようもない」
「――ダンナは子供が嫌いなのか?」
「知らない……」
「ダンナとの間に子供作ればいいだろ。君、そんな几帳面に基礎体温もつけてるんだ、命中はしやすいと思うぞ」
命中、という言葉がおかしくて、女は弱々しくクスクスと笑った。
「……命中しそうな日に帰ってきてくれなかったら、意味ないじゃないさ」
「そりゃそうだけどな……。――今度、ダンナが帰ってきたら、……存分に甘えてみてはどうだ。浮気相手のことなんかきれいさっぱり忘れて。ダンナだって、優しくないんじゃないんだろ」
「……そんなこと云ったって。帰ったら帰ったで、やらなきゃいけないこと、沢山あるんだもん。ご飯つくったりなんだり」
「そんなもん、外で済ませりゃいい。そう、存分に甘えたデートをすりゃいいんだ」
「……」
ふと、医者はテーブルの上に、女が戸棚から取り出した「手帳」が残っているのに気付いて、それを取った。
ベッドに近づいて女に、「空いた頁を出せ」と云った。
女は不思議そうな顔をしたが、素直に従った。
「デートするのに、最高にいい店を紹介してやる。飯も酒も美味い」
と云って、医者は「手帳」の画面へ、「地図を書いて」やった。
女はその「地図」を見て、訝しげに眉を寄せる。
「こんなとこに、レストランなんかあるの」
「レストランというか、酒場なんだが。地下だ」
「……すごい裏通りじゃん…」
「それはあんまり関係ない。いかがわしい店だと期待したら思い切りがっかりするくらいに、ただの酒場だ」
「――あんた、相当おせっかいだね」
淡々とした声色だが、やけに医者が勧めるので、女は苦笑した。
「それとも、この店から、いくらか貰ってるの?」
「別に」
女にそう云われて、医者は「それもそうだな」と気付いた。
何だって、自分の「客」が減るかもしれない忠告なんぞをしてしまった後に、腐れ縁の店を紹介してなぞやらなくてはならないのか。
……精神科に於いてはヤブと認めている自分の代わりに、あの店を紹介してやっているのだろうか、そんなことを思い付いて、女には分からない程度、医者は苦笑した。
そういうこともあるかもしれない、確かに、あの店は、どんな「くすり」も「ヴァーチャル・リアリティ」も要らないくらいの、「リラックス」を呉れる筈だ。
「ま、騙されたと思って行ってみろ。デートにも適してるだろうが、一人で、気晴らしに行くのにもいい店だ」
「ふーん……」
女は、もう一度地図を眺めた上で、手帳のパワーを切り、枕元に置いた。
「ではお大事に」
一度でも、あの酒場に行けば、この女は多分「くすり」も止められるし、妙な妄想から来る症状を覚えることも無くなる。そんなことを考えつつバッグを抱えて、医者は、「それではごきげんよう」と同じ意味の決まり文句を素っ気ない声で云う。
ドアに近づいた医者へ、女が慌てた声で云った。
「さっきとおんなじ、裏口から出てよ。……誰かに見られたら、……ダンナにバレたら困る」
「分かってる」
医者は気を悪くすることもなく頷いて、そのまま寝室を出、云われたとおり裏口へ向かい、その脇にあったモニタを覗いて――人通りが無いことを確認してから、素早く出ると、足早にドアから離れた。
アパルトマンの建物自体から20メートルほど離れたところで、そろそろいいか、と足の速度を落とし、医者は内ポケットから「タバコ」を取り出した。歩きながら火をつけ、煙を吐きながら暗い路地を歩く。
真っ黒なコートを着ているので、殆ど空間に溶けている。遠目だと、顔と手、タバコの小さな火がふわふわと浮かんでいるように見える。
大昔っから、医者からイメージされる色というのは「白」らしいが、この医者の場合は、「黒」だ。
実際、この医者は、「白衣」というものを着る機会も余り無い。己の持つ医院の内部では、だらしなく白衣を羽織っても居るが、今回に限らず往診の際には、自分が「医者でござる」とアピールすることは好ましくない。何が入っているのか分からない今時大きすぎるバッグを抱えていることを考えると、傍から見れば、それこそ怪しげなものを扱っている売人のようだった。
それを煩わしく思うこともなく、タバコをふかしつつ、医者は狭い裏路地を歩く。
――しばらく歩き、タバコの吸い殻を「灰皿」に入れ、俯き加減になって内ポケットにそれをしまった。その顔を上げた時に、目の前に、人影があるのに気付く。
おや、と首を傾げる。
何でこんなところに人が居るのか、と思い、不思議だった。
……じゃ、何で俺はここに居るんだ、と思い付いて、ふと苦笑が漏れる。
人がいつどこに何で存在しようが、どこの誰にも関係の無いことだ。
人は、いつだってどこにだって、居たって構わない。
「この街」でそれを不思議に思っていては、「医者」という商売は出来ない。
医者は、目の前の人物への関心を捨て、そのまま、「さて、これからどうするか。飯を食って帰ろうか」と考えながら歩いていく。
若い黒髪の男は、ビルの壁に凭れて俯き加減になっている。
ぼんやりしているふうで、医者が近づくのに気付いていない。
無意識なのかどうか本人になってみないと分からないが、ぼんやりとしているところからすると多分無意識で、何か呟いている。
段々近づいていく医者は、それが見覚えのある人物であったので、再び「おや」と思った。
その人物が呟いているのが、「メロディ」であったことで―故に、呟いているというよりも、口ずさんでいる、だ―、より一層、興味のようなものが湧いた。
しかも、その「メロディ」は、医者も聞いたことがあった。確か、馴染みあるいは腐れ縁の悪友がやっている店で、ものすごくレトロな――白と黒の帯が印象的な楽器で奏でられているのを、聞いたことがある。
とても大昔の――とても、きれいでやさしいメロディなのだ。
この若者が、何でそんなものを口ずさんでいるのだろうと、好奇心が湧いた。
酒場で覚えたのだろうか。しかし、こんな若者がこのメロディを覚えられるほど、頻繁に酒場に行けるだろうか。しかも、その時必ず、このメロディが奏でられるとは限らない――と云うより、その可能性は殆ど無いのに。あの楽器は、腐れ縁の悪友が主人になってからは、そんなに頻繁に使われたことがない…。
あの酒場以外に、このメロディを聴ける場所が何処にあるんだろう、どこでこの若造が、このメロディを覚えたのか。
知りもしない人間にまでそんな興味を持っていたのでは、医者が過労で死んでしまう。
「どうしましたか」という台詞は、知らない人間の場合なら「助けてください」と云われた時に掛けるべきである。この街で、例えば壁に向かってぶつぶつ何かを呟いている人間が居たとしても、のべつまくなしに「どうしましたか」と声を掛けていたのでは、医者などやっていられないのだ。声を掛けるとすれば、呟くのを通り越して、壁に頭をぶつけ始めてからだ。
いつ誰がどこに何故居て、何を呟いていても不思議ではない、と考えていても、それが見覚えのある人間であったので、医者はひとまず、自分の中に湧いた好奇心を抑えることを止めた。
(メイン)へ続く




