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いつもなら、事務所に制服を脱いでくる。だから、専用のエレベータを使って帰宅することになるが、いつもよりずっと疲れていた。酒場の鍵はもう閉めていたことでもあるし、ルーディは、ブラン・カテ・ビルのエントランスに入り、その時動いてなかった―すぐに乗れる―エレベータを使って帰宅した。
それは、私室に一番近いエレベータだったので、久しぶりに、そちらの玄関を使った。
シャワー室もある私室・寝室に一番近いのだから、そのまますぐに休める。だから、そのエレベータが動いていなかったことは、運が良かったということだろうに、ルーディは舌打ちをした。
私室には入るつもりなど全く無い。まっすぐにリビングに向かい、……真っ暗な部屋にため息をつく。
「シール」
一応、名前を呼んでみる。
返事は無い。
「帰っていないんですか?」
返事がないんだから、それは独り言でしかない。いくら尋ねるような口調でも。
帰っていないんですか、と尋ねて、「はい」と答える人間は居ない。「誰某は居ないよ」と代わりに答えてくれる他の第三者が居るなら兎も角。
ルーディは、分かり切ったことを尋ねるような無駄が、本来嫌いな筈だが、何故か、落ち着かなくて無駄な質問を空間に投げた。
もしかして、もう帰っていて、部屋に居たりしないだろうか。
休んでいるとすると、申し訳ないが…。
インタフォンに近寄り、一度、迷うように手が空を泳ぎ、結局、ボタンを押して声を掛けた。
それで「もう寝てるのに何だ」と怒鳴られても構わないつもりで。
「シール?」
――。
「居ないの?」
答えはない。
居ないのだろう…。
ため息をついて首を振る。
いい方に考えよう。
どこか遠くへ逃げている方が、まだしもだと、さっき思った。
きっと、そうなのだと。
もうそろそろ、この街全部が寝静まる。
そうなると、大通りでさえ、闇に包まれる……。そんなになってしまえば、いよいよ、あの若い役人は、この街には居られない。シールにとっては、その方が安全だ。
そうなってから帰ってくるようなら、その方がいい。
ルーディは、そう考え、ひとまずシャワーを浴びることにした。
私室に入ったらそのままベッドに入ってしまいそうだったので、共有であるバスルームへ向かった。
シャワーを終えてリビングに戻ると、ルーディはやはり、
「シール」
と名前を呼んだ。
だけど、返事はない。
自分の声が、空間に漂っただけだ。
それが、やけに寒々しい。空調は、温度も湿度も完璧に働いているのに。
ルーディは軽く首を振って、ソファに座り込んだ。
こうも寒々しいと、部屋の照度を上げても却って白けるだけだが、ルーディはリモコンを取って、部屋を明るくした。
高い高いビルの最上階、その灯りが地上から見える訳じゃないだろう。
だが、誰かがここに居る、そんな主張は、微かにでも出来る。
普通に玄関に入って、廊下を歩いたその先に、真っ暗い部屋よりも、誰かが待っている明るい部屋がある方が、きっと、いい。
その部屋に待っているのが「こんな時刻まで何をしていた」「心配をさせるな」、そんな叱責だとしても。
君が帰る家には、君を待っている者が居るのだと。
灯りは、それを主張出来る。
ルーディは一度立ち上がって、キッチンに向かい、グラスと瓶を取ってきてテーブルに置き、ブランデーを啜った。
灰皿も引き寄せて、火をつける。
ゆっくりと一本を吸い尽くし、ブランデーの一杯を空にしたところで、溜息をつき、また立ち上がる。
眠る気にはならない。
どうせ、明日から―日付はかわっているから正確には今日から―店は閉める。事務所の仕事は家ででも出来る――。夜更かしをして、誰が困る訳でもない。
私室から、私事に使うモバイルを取ってくると、ソファに座り直し、膝にそれを置いて起動した。
サン・ターシュという言葉に、覚えがあるような気がした。
それを、どこかに記録しているのではないだろうか―記録している可能性がある気がする言葉だ―。
文化庁の役人が口にした言葉と、シールの行動からして、サン・ターシュというのは、ファミリー・ネームのようだ。
ルーディは、端末のモニタを、口元に手をあてて眺めていたが、ふと目を閉じてそのまま考える。
サン・ターシュという言葉を、そのままコンピュータに任せて検索する前に、まず、自分の記憶を検索する。
このコンピュータのどこに、その言葉はあるか。自分自身がコンピュータに記憶させた言葉なのだから、そのくらいのことは自分の頭の中にも残っている筈だ。
今は、暇だ。コンピュータがその言葉を検索している間に、自分がやりたい何かがある訳でもない。だったら、その言葉が自分の頭のどこに残っているか、考える方がいい。
ルーディは目を開けて、「スクラップ帳」と名付けたファイル置き場を覗いた。
ニュースメールの中で、気になった記事を置いておく場所だ。
やはり、そのなかの記事の一つに、「サン・ターシュ」という言葉はあった。
「シェレ・サン・ターシュ」という言葉も。
それを見て、ルーディは苦笑する。
役人が、「シェレ・サン・ターシュ」と叫んだ段階で、これを思い出さなかった自分に、「齢を取るとはこういうことだろうか」と苦笑が漏れた。
すぐに思い出して不思議じゃないのに、わざわざ、スクラップ帳を開かなくては思い出せないなんて。
次には、今のせっぱ詰まった状況に全くそぐわない呑気なことを思い付いて、やはりそのまま苦笑していた。
シールは随分な童顔だ、と。
「シェレ・サン・ターシュ」は、この記事の中で「ハイスクール在学中」だった。生存していれば、現在は成人している。
シールは、ハイスクール、せめて、卒業したばかり、だと踏んでいたのに…。もしかして、あの役人と同じくらいなんてことは。
これも齢か、人を見る目も衰えたかな、と苦笑し、最初に、「成人はしていないですね」と云ったとき、シールが否定しなかったのが「誤解されていた方が好都合」と思ったからだったとすれば、シールはそれほどバカじゃないな、そんなことを考えた。
「シール……」
そして、眉を寄せてシールの名を呟く。
文化庁の役人が、何故シールを捜しているのか、「何となく」だが判った。
はあ、と溜息をつき、ルーディは考える。
シールに、
「逃げなさい」
「ここに居なさい」
どっちを云うべきなのだろう、私は?
そんなことを考える。
時間が流れ、しびれを切らしたルーディが、端末のパワーを落として立ち上がる。
もう、夜が明ける。
夜が明けてしまったら、シールが外に居る意味など無い。
明るくなってから帰ってくる方が問題だ、暗いうちに帰ってこなくてはいけない。
……。
昨日店に来たのだから「仕事」は休みと決めていたのだろうけど、もしかして、それを変更して、客を取っていたりするだろうか。
それだったら、夜の間身を潜められたのは、全く喜ばしいことだ。
――だけど…、
いつものように、明るくなって、朝食の前に帰ってくるようじゃ、やっぱり、駄目だ。
誰かに追いかけられたことも忘れて、いつものような行動を取っているようじゃ、やっぱりあの子はバカだ。
そんなことを考えて、ルーディは、パジャマの上にコートを羽織って、エレベータに向かった。
なるべく人目にはつかないエレベータ…、となれば、自分一人しか使わないそれを使い、酒場まで降りる。
それから、そっと、お客様が降りてこられる階段に向かって、地上へ向かう。
鍵が掛かっているが、内側からそれを開けて、外に出る。
まだ暗い。
目の前までやってこなくては、人の顔など判別できない。
だけど、もうすぐ、……夜が明ける。
それまでに、シール、一度、帰ってきなさい。
ルーディは、そんなことを考えながら、周囲をくるっと見回した。
――前に一度、似たような光景を見たことがある。
雨こそ降っていないけど。
道を挟んだ向こう側の建物の隙間に、座り込んでいる若者。
ルーディは、今度は大声を出して呼ぶのではなくて、静かに彼に近寄った。
彼は、近寄ってくる誰かに気付かない。
座り込んで項垂れている、もしかして、眠っているのだろうか。
すぐ近くに、人が近づいているのに。
それが、自分を追いかけているものだったら、どうするつもりなのか。
「シール?」
ルーディは、小さな声で名前を呼んだ。
小さな声でも、周りがシンとしていることを考えれば、充分聞こえた筈だ。
だが、シールは、顔を上げない。
本当に眠っているのだろうか?
いや…。
ルーディは、訝しげに目を細める。
シールは小さな声で何か呟いている。
独り言? 何か、考えに沈んでいる?
だから、気付かないのか……?
だが、何を考えているにしろ―追いつめられて、これからどうやって逃げようか、そんなことを考えているのだとしても―、結果的には危機感が無い。こんなすぐ近くに、誰か近寄っているのにも気付いていないなんて。
「……シェレ・サン・ターシュ」
ルーディがその言葉を呟く。
シールが、一瞬、全身を固く強ばらせて、顔を上げた。
そこに立っているのが誰か、この街に…、暗い夜の方に慣れているシールならば判った筈だ。
その人物が、自分を追いかけているものではないことなど。
だが、シールは、表情を強ばらせて、家主を見上げている。
「……シール」
ルーディが、よく知った名前を呼ぶ。
するとシールは
「ルーディ……」
と名前を呼び返した。
確認するように。




