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彼は素直に、待っていた。
階段から透明なドアを見上げると、人の形が見える。
ドアを開けると、彼は振り向いた。
「ほら」
云いながら、主人は頭にタオルを乗せる。シュゥ、と微かに音が聞こえる。
「よく拭いて」
「……」
ぶす、っとした顔で、彼は素直に頭から顔、肩を拭いていった。
「そのバッグも」
主人は、念を押した。
どうも、彼が大事に抱えていたから、彼自身よりは濡れていないようだったが。
あ、と彼は思い出したような声を上げて、慌ててバッグも拭いた。
…自分自身よりも丁寧に拭いている。
酸を帯びた水が、もう滴ることは無さそうだ、そんな頃に、主人はもう一度ドアを開けて、「入りなさい」と云った。
「どうして」
「まだ雨が止んでいないから」
「……」
主人はやはりあっさりした声で云う。
彼は、どういう言葉で逆らったらいいものかわからないらしく、タオルを主人に返すと「うん」と頷いて階段を下りていった。
「椅子に座るのは待って」
主人が後ろから釘を刺し、「来なさい」と彼に云って、控え室に入れた。
ちら、と主人は彼の顔を見る。
若干、自分が見上げているのがわかる。背が高い。
雨にずぶぬれになっている時には、気づかなかった。…人間には毛皮が無いのだが、まるで犬や猫のように、ずぶぬれだと小さく見えるものらしい。
先ほどは、寒いのか、背も曲がっていたし…。
主人は、「ええと」と一人呟いたあと、ロッカから綿のシャツとズボンを出した。
「着替えて」
「何故?」
「滴ることは無いから、床は一応無事だけど、濡れた服のまま椅子に座られるのは困る」
何でそんなことを訊く、とは主人は云わずに、答える。
彼は、渡されたものを受け取った。
「これ、合成?」
「いいえ」
「……高いんじゃないの」
「高いよ」
「……なんで俺に、こんなの着せていいの」
「だって、他に今、君が着られそうな服が無いんだもの」
肩を竦めて主人が云う。
彼は、そんな主人に、あきれた顔をした。
「早く着替えてください」
「分かった」
主人は頷いて、控え室を出て行き、彼が出てくるまでに、飲み物を用意した。
素肌に、合成皮革のジャケットとパンツをつけていた彼が、白い綿シャツと濃いグレーの綿ズボンを身に着け、バッグを抱えて出てきた。
さて、どちらが似合っているかどうかは、主人には分からない。
少なくとも、酸性雨に濡れた衣服で椅子に座られるよりは、こちらの方がありがたい、と思う。
乾きかけた髪は、黒である。クセは無いようだ。おそらくちゃんと乾いて櫛をあてれば、色に反して軽やかにサラサラと風になびくのだろう。
緑色の瞳。奥二重で、若干釣り目、細くはない。顔の造りは悪くない、という感想を持つ。
右の耳に二つのピアスをしている。リングを1つと緑色の石である。左耳に、一つ、…同じく緑色の石のピアス。
背丈はやはり、自分より5センチ以上10センチ以内で高い。年もやはり、成人はしていなさそうだ。ハイスクール…、せめて、卒業したばかり、か。
アウトローの雰囲気もあるが、それほどひねてはいない。特に男性の若者の場合は、大抵こんな時期を持つものだ、と主人は思う。
やはり、見たことが無いな、と主人は確認し、その後、指名手配犯のリストにも無い、と、全く表情は変えずに考えていた。
「どうぞ、座りなさい」
カウンタの中から云われたので、彼は、カウンタ席に座った。
「置いていいよ、もう全然濡れていないようだから」
主人は、彼が抱えたバッグを指差して云う。彼はそれに従い、カウンタに置いた。
「飲む?」
と主人がカウンタに、湯気の立つグラスを置く。
「これ、何?」
「ミルクにブランデーを入れてある」
「ミルク? まさか、これも天然じゃないよな」
「ええ、流石に。合成です」
苦笑して主人は頷き、飲まないの?と続けた。
「温まるよ」
彼は、グラスを取り、一口啜った。
美味い、不味い、は云わない。
しばらく、静かに、彼がミルクを啜る音だけが聞こえた。
先に口を開いたのは彼だった。
「あんたさ」
「何?」
「何で、こんなこと俺にしてくれんの」
「してあげている、なんて意識は無いです」
おや、という顔をして主人が云う。
「じゃ、放っておけばいいじゃないか。…訳が分からねぇ、あんたのやってること」
「ん~、説明した方がいい?」
「……説明っていうのもヘンだけど…」
彼は、戸惑った顔をしてから、うん、と頷いた。
「じゃあ、君のことを訊いてもいいかな?」
「え?」
「プライバシーに関わるんじゃないかしら?」
「訳が分かんねー…」
彼は、今度は苦笑した。
「君、辻君ではないの?」
主人が云うと、彼はピクリと表情を強張らせ、眉を寄せる。
そして、吐き捨てるような声で云った。
「そんな上品な言葉、知らねー。何、ソレ」
「上品な言葉だって知ってるじゃないの」
クスクスと主人が笑う。
彼は、ぶすっとした顔をしていた。
「率直に云えばいいじゃねーか」
「じゃ、そうしようかな。君、男娼? お客さんを待ってたんじゃないの?」
「……そうだよ」
小さな声で、彼は肯じた。
「悪いか」
「悪くないよ。君みたいな人は、ここら辺じゃあ、当たり前だもの」
「……」
「だから、この街に住んでる私は、君みたいな人は放っておくわけにいかないの」
「……へんなヤツ…」
彼は、独り言のような声で云った。
「飲み屋は兎も角、VRセックス屋やってるヤツだって、客取るのに立ってる俺らのことなんか、白い目で見てるぜ」
「うん。でも、私は白い目で見てないよ」
「そうだろうよ…」
溜息混じりに、彼は苦笑した。
「君、家はある?」
「無い」
「あ、そう…。そりゃ、雨が降ろうが掃射があろうが何としても客は取らなくちゃねぇ…。もしかして、このバッグは君の全財産?」
自分を全く軽蔑した様子が無い、その代わり、哀れにも思っていないらしい酒場のあるじを、彼は質問に頷いた後、怪訝そうに目を細めて見た。
「あんた…、変わってるな…」
「そう?」
「……」
「君、この商売始めて、あんまり経ってないでしょ」
主人が、訊く。彼は、すぐには答えない。戸惑った顔をしている。
「少なくとも、この街に来て間もないね」
「ああ」
「だから、私が珍しいんだ」
くすくすと主人が笑う。
「どういう意味?」
「だって、私のこと知らない人は、この街にあまり居ませんから」
「……元締めみたいなもの?」
「嫌だなあ、元締めだなんて。カリスマと云って」
苦笑して主人が云うと、彼も少し笑った。
「君、いくつ?」
「……云いたくない」
「あ、そう…。まあ、成人はしてないですね」
「……」
「名前は? 本名じゃなくてもいいよ、売ってる名前でも」
「何で訊くの」
「呼ぶのに困るでしょう」
「……シール」
本名か、源氏名か、主人は確かめたりはしない。
「シール。剥がすと何があるのかな」
「……確かめてみるか?」
くくく、と主人が笑った。
挑むような目をしたシールに。
「結構です。私は、玉手箱を開けない人なので」
「何だ、それ」
「知らない? ヤパの伝説ですよ」
「知らない」
シールは、底に残ったミルクを飲み干した。
「あんたの名前は? 人に名前聞いといて」
「ノア・カテのあるじ、ではダメですか?」
「それは、名前じゃなくて、肩書きっていうんだ。俺の、『男娼』だ」
結構、頭がいいのかな、この子、と主人は思う。言葉がしっかりしている。
「ルードゥルフィーア・セイレイシィ、と云います。本名ですよ」
「長すぎる」
「じゃ、ルーディと呼びなさい」
「ルーディ」
「何です?」
「あんた、変わってる…」
「そうですか」
「俺に、敬語だし」
「命令もしてますよ、年寄りらしく」
「ああ、そうだな…」
シールが苦笑した。
そして、フゥ、と息を吐いてから云った。
「あんた、俺を買わないか?」
「……」
「俺、家が無いんだよ、買ってもらわないと、飯も寝床もない」
ルーディも苦笑した。
「何で、寝床と食事を提供する私が、お金を払う必要があります」
「……その代わり、好きにしていいってのが、俺の仕事だ」
「素直に、泊めてくれ、と何故云いません」
ルーディが云うと、シールは口をつぐんだ。
「家賃を払うなら、家も提供しますよ? …ああ、でも、アパルトマンは全部埋まってるんだっけ、私の家でよければ」
「……いいのか?」
「いいですよ? 家賃を払うなら」
平然と云うルーディに、シールは、一度戸惑った顔をした。
「ルーディ、俺が金稼ぐ方法って、身売りだぞ?」
「分かってますよ?」
「そんな金、受け取って嬉しいか?」
「嬉しいとか何とかいうこと考える方がおかしい。お金はお金です」
「……酸性雨どころか、病気持って帰るかもしれないぞ」
「ふん、今時。…君、私に自分を買えと云っておいて何を今更…」
「ああ…本当だ。俺、…何を怖気づいてるんだろう」
ルーディが、自分を「買う」訳ではなく、しかるべき代償を払えば、住居を提供すると云った、それが何だか…、不思議な気がしたらしい。
「病気もらうことがあるなら、それは君が悪いんじゃなくて客が悪いんじゃないですか、今時」
「ヘンな考え方…」
「家ぐらいは、持てるくらい稼ぎなさい。君の方がヘンですよ。体張ってるのに、住む場所も無いなんて。VRセックス屋だって、ホテル住まいが出来る程度稼いでますよ、普通」
ルーディが呆れたような声で云う。
シールも呆れた声で云った。
「あんた、ヘンだ」
「そうですか?」
「道徳とか倫理とか、あんたには関係ないのか」
「男娼に云われると思わなかった」
素っ気無い声で、ルーディは云った。
シールが口を噤む。
「シール。君、私に、そんな商売やめなさいと、云って欲しいの?」
「……そういう訳じゃないけど」
「嫌ならやめればいい」
「……飯と寝床には困らないから、嫌じゃない」
「君はバカですね。本当は、それだけじゃなくて、ここでお酒が飲めるくらいのゆとりがあって当たり前なんですよ、その商売は」
「……」
「客を選びなさいよ、シール」
呆れた声でルーディが云う。
シールは苦笑して、ふーと息を吐いた。
「うん、これからは、そうする」
「そうしなさい」
「…ルーディ」
「はい?」
「それで、今日は泊めてくれるのか?」
「いいよ。今日と云わず、いつまででも」
「……いいの?」
「いいよ。云ったでしょう、家賃と食事代さえ入れれば」
あっさりした声に、シールは苦笑して、「そうだったな」と云った。
「家賃、…いくら?」
「君の今までの、『飯と寝床』代でいいよ」
「…安すぎるよ」
「だったら、これから高くするんですね」
ルーディが微笑して云う。シールは、「成る程?」と肩を竦めた。
「じゃ、いらっしゃい。私の家は、この一番上なんです」
「…え?」
ルーディはカウンタを出て、シールを促した。
シールが不思議そうな顔をする。
「もしかして、このビル、あんたのもの?」
「そうですよ」
平然と云ったルーディに、シールはポカンとした後、やはり苦笑した。
私宅へのエレベータに向かい、中に乗り込むと、シールが呟く。
「あんた、ケチなんだな」
「ケチ?」
「こんなビル持ってるような金持ちのくせして、俺を買う金を渋った。その上、家賃入れろ、だって…」
「君みたいな若い子に、誤った経済観念は持って欲しくないだけです」
あっさりした声に、シールは、喉を鳴らして笑った。
「それで、もっと高く売れ、かよ…」
「当たり前でしょう。一番売ってはいけないものを売ってるんだから、高く売らなくてどうします?」
「…あんた、倫理感が無いんじゃないんだな」
「男娼に云われると思わなかった」
ノア・カテのあるじは、父親が亡くなってから長いこと一人暮らしをしていたが、一時期、二人暮しをしていたことがあったのである。
2002.10.6




