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「ノア・カテ」は確かに、政府が文化財に指定したがるほど、店自体が骨董品と云っていい場所である。
しかし、代々のあるじは、ただ自分の持ち物を大事にしてきた単なる酒場の主人に過ぎず、特別な存在と意識したことは無かった。
文化財になるほどの骨董品に興味を惹かれて来たのだとしても客は客であるのでそれなりに扱い、そしてそのうち、そういう者も単なる酒飲みの客になることも知っていた。
あるじは、「過去」を大事にしているのではなく、酒場という社交場を大事にしていた。
「ノア・カテ」は、由緒正しい酒場なのである。
そして…、「ノア・カテ」がある場所も、由緒正しい「歓楽街」「風俗街」であり、「ノア・カテ」はそのなかでも寂しい静かな場所にある、「場末の酒場」なのだ。
ノア・カテは、その性格から、そんな場所にあっても大層繁盛している。あるじは「金持ち」である。
故に、先代から現在のあるじに代替わりするくらいの頃に、税金対策もあって、地下にあるノア・カテの地上には、ビルを建てた。
1階はノア・カテの一部…主に倉庫である。最上階には、オーナーであるあるじの私宅があり、1階下に事務所。その下には、やはりオーナー家の私物が詰まった倉庫や屋内菜園などが、さて何階分か---ここに、オーナー以外の人間が入れることは稀である---。
倉庫から10階下くらいまでがアパルトマン、そしてその階下から3階まで、やっぱり飲食店や風俗店が詰まっている。
オーナーは、住人や店の種を全く気にしていない。
ノア・カテのあるじであるビルのオーナーは、場末の酒場であるノア・カテと同じくらいに、「由緒正しい歓楽街」である故郷を愛していた。
だから、余りにも違法性が強いものは流石に断るが、テナントの受け入れには、寛容だった。また、アパルトマンへ入る住人の受け入れも…。こちらも、極端に云えば「指名手配」されるほどの犯罪者以外なら受け入れていると云って良い。また、そうでなければ、極端な「家賃滞納者」以外。
そして、この街は、今も歓楽街である。
少々いかがわしい店もあれば、…辻君も立つ---女とは限らない---。
先代のあるじが亡くなった時、葬儀の席で政府からの使いが、香典と改めて文化財保存の申し出文書を出した。
代替わりしたあるじも、やっぱりそれを断った。
この店を愛しているので手放す気は無いというのもそうだが、…同じくこの店を愛した父親の葬儀の席でぬけぬけとそんなものを出してくる人間を、信用できなかったというのもある。
多分、政府がそんなにもこの「ノア・カテ」の保存に躍起になるのは、文化財の尊重というのに加えて、…この街の再開発に乗り出したいというのがあるのではないかと思う。
主人は、薄暗い店内を見つめて思う。
閉店間際である。常連の客が、テーブル席で一人、呑んでいた。
彼は、あまりカウンタで主人と話をしたりはしない。なので、主人は彼を気に入っていた。
純粋に、この店の雰囲気を気に入ってくれているのだろうと思うので。
カウンタで話し込む客が嫌いだというのではないが、自分と世間話をするのではなく、店内の意匠やインテリアについて話しかけたがる客は、あまり好きではない。何か下心を持っているように思うので。
だから、あんなふうに…、持ち主である自分には何も興味を示さず、純粋に店内の雰囲気を楽しみ、酒をたしなむ客が、主人は好きだった。
ああいう客が居るから、この店を、何としても自分が維持するのだと、主人は考える。
多分、政府は…、この、文化遺産としての「ノア・カテ」を手の内に入れ、この「いかがわしい歓楽街」の再開発に乗り出したいのだろう。
今も昔も、こういう街や店は、「必要悪」だが、なくせるものならなくしたいもの、なのだ。
特に最近の人間は、清潔感に満ちている。
「ノア・カテ」があるから、この街にやってきて、この街に惹かれ、こういう街にしかない「美」を忘れないのだが、「ノア・カテ」が博物館になったらなったで…、きっと、この場所の魅力は、忘れてしまうだろう。
酒はどこででも呑める。アヴァンチュールは、ヴァーチャルリアリティでなんとでもなる…。
空気とか雰囲気とか、そういうものについては拘らない、というより察知できない人々が多い。この街を「無くしたくない」と思う人間が、居ないと云える。
いざ、この店が無くなったら…、きっと、政府は何十年計画で、この街を替えることだろう。
別に自分が死んだ後のことはどうでもいいつもりであるが、…主人は、「故郷」を無くすように思えて、自分の目の黒いうちは、決してこの店を文化財にはしたくないと思う。
生きた文化「風俗」でありたいと思っている。
最後の一人の客が、席を立ってカウンタに近づいてきた。
「ごちそうさま」
低い声の男性である。いつも素っ気無い声だ。
普段は本当は、あまり喋らない人なのだろうと、主人は分析している。
「ありがとうございました」
主人がニッコリ笑って、カードを受け取り、精算をする。
すると、客も微かに笑って、差し出されたカードを受け取った。
多分…、普段はあまり喋らず、それこそ、食事の後に「ごちそうさま」なんて云ったりしないだろう。それはこの客に限らないが。
液晶端末に注文し、チューブを通って皿は転送され、液晶端末に向かって精算する。ニコリとする必要も余地も無い。
それが、昨今は当たり前である。
そんな客が、自分の作ったカクテルに礼を云い、微笑する。
それは、この店がさせているのだ。
主人は、この「酒場」が必要なのだと思っている。
最後の客を、追いかけてドアまで送り、「お気をつけて」と声を掛ける。
やはり、その客は微かに笑って、「どうもありがとう」と云った。
「おや」
「おや」
客と主人が、異口同音に呟く。
ポツリ、と雫が落ちてきた。
大変だ、と主人は思う。雨だ。
今の時代の雨は、生き物の身体にはいいものではないのだ。
「傘はお持ちですか?」
主人が訊く。
客は、苦笑して頷く。殊更に心配そうな顔をしている主人に対して、苦笑していた。
「ご心配なく。持っています」
「それは良かった」
客は、バッグから折りたたみ傘を出すと、頭の上に広げた。
シュー、と小さな音がする。
主人は、ああ…、とやけに感慨深くなる。うちにある、大昔の傘に比べると弧のきつい、Uの字の傘。その骨の先端から、エアが噴出している。それが、雨を完全にはじいて、中の人間は全く濡れずにすむ。
私が大事に取ってある傘も、使えるものではないのだ、と改めて思う。濡れてしまうもの。もしかして、それ以前に融けてしまうかも。
雨足は、すぐに早くなった。
客の傘が、「ぱらららら」と音を立てる。
「では、ご主人、お休みなさい」
「はい、ありがとうございました、お休みなさいませ」
客はゆっくりとした足取りで去った。
その後姿が見えなくなるまで、主人は見送る。もし、ふと客が振り向いた時に、自分が背を向けている、あるいはもう消えているようだと、少々寂しいものではなかろうかと思うので。
傘のせいで、「人の形」が見えなくなるのはすぐだ。飛沫にけぶった「筒」が見えなくなってから、主人は、さて、と首を傾ける。
閉店の仕事に入りましょう。
と。
主人は眉を寄せた。
いつから立っていたのだか?
ノア・カテの玄関から見える路地の角に誰か立っている。
ふと、主人は上の方に目をやった。…あの路地。道路を挟んで向こう側の…真四角のビルの隙間に過ぎないじゃないか。つまり、屋根がない。
「君!」
主人が、珍しい大きな声を出す。
主人の目についたその人は、自分のこととは思わなかったらしい。相変わらず、壁に背をくっつけて立っていた。
主人がもう一度呼ぶ。
「君! ちょっと!」
やっと、その人物は、周りをキョロキョロとして、付近に自分以外の誰も居ないようだということを確認してから、主人の方を見た。
顔がチラリと見える。…男の子のようだ。ハイスクールくらいか、と主人は思う。
主人は、うん、と頷いて、「君だよ!」と云う。
「何をしているの、来なさい!」
びく、と彼が、身を固くするのが解った。
聞こえないと困るから大声になっているのだが、彼は、叱られたかどうかした気分になったらしい。
「何をしているんです、早く来なさい」
「な、何で?」
何でもなにもあるか、と主人は苛ついた表情を見せた。
「そんなところで雨宿りになりますか、バカですね!」
「……」
叱られたようなものではあるが、別に補導されるということもなさそうだ、ということは解っただろうか。
彼は、戸惑った表情を一瞬見せてから、道路の左右を見て、主人の方へ走ってきた。肩に掛けたバッグを大事に抱えこんで…。
主人は、玄関の軒先に彼を立たせて、ちょっと待っていなさい、と云った。
「こんなに濡れたまま、店に入れるわけにはいかない」
独り言のような口調で云う。
「じゃあ、放っておけばいいじゃないか」
彼は、不貞腐れたような声で云った。
「そういう訳にはいかない」
「見ず知らずの俺のことを何故」
「見ず知らずでも、ここに居る以上」
「何だよ」
「放っておくわけにはいかないの、私は」
よく分からない理屈だ、と彼は、あきれた顔をした。
「待っていなさいよ、いいですね」
「……放っておけよ」
「君が死にたいのなら、そうしてあげます。でもそういう訳ではないでしょう」
「何で解る」
「クルマが来ていないか、確認してからこっちに来た」
「……」
主人はあっさりした声で云い、玄関のドアを開けて階段を下りていった。
さて、酸除去専用のタオルを取ってこなくては。




