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=6= -(2)

 顔を背け、「ああ…」と溜息混じりに頷く。

 ……最近、常連から外した男だ。

「最近見ねぇなぁ、と思ってたんだよ…。河岸変えたのか? ここらで見たこと無かったぜぇ?」

 確かに、そうだ。常連から外すために、この男が今まで自分を拾っていた場所には、もう長いこと行っていない。

 …しかし…、自分が常連から外したというだけで、本人はそうは思っていない。

 男は、肩に置いていたのとは逆の手を、シールの膝に伸ばした。

 年齢は、自分より十かそこら上だと読んでいる。

 見栄っ張りの威張りたがり。金は持っているらしいが、払いは良くない。ちょっとチップを弾んだことがあったと思っても、割に合わないプレイをしたがる。

 ……もっとやりやすい客が居る以上、相手はしたくないから、河岸を変えた。

 坊ちゃん、とか呼ばれていたな…、もしかして、身分や地位が高いのだろうか、ただし親の。金を持っているのは親、というヤツなのだろうか。

 ガラは相当に悪いので、シールはチンピラだと今まで思っていた。


 「そういう訳でもない」とか「通りかかったら飲み屋があったから」とか適当なことを云って、ひとまずグラスとチーズの相手をしていたのだが…、男は、手を止めない。

 膝を撫でていたかと思えば、よからぬ場所へ手を伸ばそうとした。

「止めろよ」

 小さな声でシールが制す。

 ニヤニヤして、男は「へぇ?」ととぼけた。

「場所をわきまえろよ…」

「関係ねぇ。…偉そうな口をきくじゃねぇか」

 関係なくなんか無い。

 ルーディの店だ。

 チラリ、とシールが主人を見ると、…こちらに気付いていない素振りだった。

 肩にかけた腕に力をこめ、男はシールを引き寄せる。

 顔を近づけて、

「偉そうなことを云うじゃねぇか」と繰り返し、

「場所をわきまえてないのはどっちだ」とバカにした声で云い、

「てめぇみたいなクズが来られる店じゃねぇぞ」と続け、

「この淫売」

 シールの耳元に、繰り返す。

 手は、相変わらず腿から、その脚の間を擦っていた。

 シールの顔が火照る。

「この淫売」

 男は繰り返す。

 ばかが、とシールは胸の中で呟く。

 この顔の火照りは、淫らとかいうことじゃなくて、怒りと、ルーディに対する羞恥と恐縮からだ…。

「やめろ、って、云ってるだろう」

 少し強い声で云うと、男は眉を寄せた。

「いつからおまえは、そんな口がきけるような人間になったんだ、クズ」

「……」

「アア、金がまだだからか? ケケケ。ああ、分かった、金は払う。どうだ久しぶりに、俺が買ってやるぜ、シール」

「…今日は休業日なんだ」

 シールの言葉に、男は下品に笑った。

「ケケケ。てめぇごとき何が休業だ、偉そうに。…おら、金は払ってやる、…ここで銜えろ、変態」

 そう云って、男はシールの頭を自分の下肢に押し付けようとした。

 慌てて、シールは男の膝を押し返す。

「や、…やめろ、分かったから」

「分かったんならやればいいだろうが」

「違う、ひとまず、この店を出るんだ。俺は…」

 シールは、再びちらりとルーディを見る。

 一瞬、目があった。…ルーディも、こちらの様子がおかしいことに、もう気付いている。

 だけど、どっちに--シールと男のどちらに--文句を云う訳でもなく、静観している。まだ、あるじが口を出す事態ではないということだろうか。

 ルーディは、ふと視線を外した。

 シールは、胸の中どこかが、一瞬寒くなった気がして、ぶるりと首を振る。

「ここに迷惑がかかる」

「けっ、知ったことかよ…」

「……いいから、出よう」

 シールは、慌てた様子でポケットから小切手を出すと、カウンタに置き、

「ごちそうさま」

 と主人に云った。

「つりは要らない」

 続けてそう云って、男を引っ張って行く。

「俺の支払いは、いつも通りで頼むワ、マスターさんよ」

 ……男が、ニヤニヤしながら酒臭い息で云った。

 ルーディは表情を変えず、かしこまりました、と云って、二人の後ろ姿に

「ありがとうございました」

 と声をかけた。

 ……ルーディは、カウンタの上の小切手を取って、ひとまずベストの胸ポケットに入れた。

 そして…、他の客からの注文であるカクテルを作るために、ちょっとの間、フロアに背を向ける。

 背後の棚に、酒瓶が並んでいる。その中から、瓶を選別する少しの間、…常連・一見を問わず、客は誰一人として、ノア・カテの主人の、こんな表情は見たことがないだろう、しかめっつらをしていた。


 それから少しして、本当に閉店間際、今日最後になるのだろう客がひとり、ノア・カテに入ってきた。1杯だけでも、飲んで帰ろうという魂胆だろうか。そのくらいに、ノア・カテが気に入っているという証か。

 主人の出迎えを待たずにドアを開けてきたので、常連なのか。一見ではないことは確かである。

 その客は、主人の「いらっしゃいませ」という声を聞きながら、眉を寄せつつカウンタに座った。

「何になさいます」

 主人が微笑して語りかける。

 …やはり、常連であるのだろう、主人の顔を見て、潜めた声で、注文をする前に雑談を始めた。

「ご主人、今」

 客は、人差し指を上に向けて云う。

「ケンカしてるのが居たよ…」

「……」

「イヤだね、ナンだって、この店の入り口の前で」

「ああ…そうですねぇ」

 主人は、客に合わせて表情を曇らせた。

 …本心から、イヤだね、と同調している訳ではない。大体、「こういう街」にはそういうことがつきものだ、と思っているから。

「うちの前じゃなけりゃいいというものでもありませんけどね」

 苦笑してそう云うと、「ああそうだね」と客は軽く首を振る。

「ノア・カテを1杯」

「かしこまりました…」


 やはり、その客が今日最後の客となった。

 いつものように、主人は最後の客を地上まで見送る。

 階段を登りきった先のドアを開け、…客は顔をしかめ、主人は表情を冷たくする。

「ああ、イヤだ」

 客は呟いて首を振った。

「まだやっているよ…」

 すぐ目の前ではないが、50メートルも離れていないような場所で、殴り合いをしている者が居る。

 いや、殴り合いというのは違う。

 片方が片方に、一方的に殴られているようだ。

 主人は、客の肩に手をかけ、

「…こちらの通りからお帰りになった方がよろしいですね」

 とケンカをやっている風景を見せぬように向きを変えた。

 客も、「そうだね」と頷く。

「ああ、こんなことがしょっちゅうだと、ここに来るのが怖くなってしまうよ」

「……申し訳ございません」

「ご主人が謝ることはないだろうに」

 客が、「おや」という顔をして云う。

 主人は真面目な顔と声で返した。

「いえ…、周辺のセキュリティに気を配るのも、主人の務めかと」

「……生真面目だな、ご主人は。…こちらこそ余計なことを云ってしまって済みませんね」

「いえ……。お休みなさいませ、ありがとうございました」

「…お休みなさい…」

 いつも通り、客の姿が見えなくなるまで見送った後、ルーディは外から店への扉に鍵をかけると、振り返り、カツカツと靴音をさせて、傷害の現場に向かった。


「クズ、クズめが、おまえなんかに俺を拒む権利なんかありゃしねぇ、このクズ」

 そんなことを云いながら、ノア・カテの常連客が、道路に腹を押さえて倒れ込んだ若者の脇を何度も蹴っている。

 うぐ、げぼっ、と喉から嫌な音を、若者は吐いていた。

「ほら、それしか出来ねぇんだろう、俺のコックを銜えるんだよ、クズ」

 若者の髪をつかんで乱暴に引き上げて、そんなことを云っている。

「いやだ、離せ…」

「コノヤロウ」

 男は、若者の頬を殴った。

「いい加減にして下さいませんか、ミスター」

 ルーディは、男の背中に落ち着いた声で云った。

「あぁあ?」

 男はゆっくり振り返り、その目は、座りきっている。

 かなり酔っているのに加えて興奮したせいで、理性なぞその目から窺えない。

「あぁ~? 飲み屋のご主人が、ナンのご用ですかねぇ~」

 げふ、と息を吐いて、弱々しくシールが顔を上げる。

 …ルーディの表情が、凍てついている。そう見える。

「危ない…」

 シールが呟くが、ルーディには聞こえていないのか、一瞥することも無かった。

「店の近所でこういうことをされたのでは、迷惑です。…お客様が怖がっておいででした」

「……へっ、知るかよ。お上品で軟弱な飲み屋のご主人如きは、引っ込んでたほうがよろしいデスよ、ただでさえお年を召していらっしゃる」

 けっけと笑って男が云う。

 …この男、自分のような人間だけじゃなく、ルーディをも見下げているようだ。

 シールは眉を寄せ、男を見上げて睨む。

 けれど、体を支えていられなくて、背中を丸め、額を道路にくっつけると、ぐぶぐぶと喉を鳴らしていた。

 危ないから、どいていろ、ルーディ…。

 そんなことを、繰り返し頭の中で云う。だけど、ルーディもシールも、テレパスではないから、伝わることなど無い。

 伝わったとして、ルーディに従うつもりも無かったが。

「警察に連絡をさせて頂きますが、宜しいですか?」

「へぇ~、警察。俺が何をした? なぁ、シール、警察呼ばれて困るのはおまえだよな?」

 シールは答えずに、ただ腹を押さえてうずくまっている。

「ご主人さん、警察呼ばれて困るのはコイツですよ、何せ、金で体売ってる最低ヤロウだ」

「……そうですか」

 ちらり、とシールを見下ろして、ルーディは頷く。

 ひひひ、と笑って、「分かったら引っ込んでてクダサイナ」などと男は続けた。

 だが、ルーディは引くことなく、臆することもなく続けた。

「では、お父上に連絡致しましょう。私は今、あなたに一刻も早く、ここから立ち去って頂きたいのです。迎えに来て頂きましょうか、お父上に?」

 …冷静な声でルーディが云うと、…男が顔色を変えた。

 一瞬、唖然としたあと、顔面が真っ赤になる。

「な、なんだと? こいつ、この」

「被害者であるこの若者が何者であるかはどうだって構わないんですが、加害者があ(、)な(、)た(、)であることは変わりありません。あなたがノア・カテの営業に、私に迷惑をかけていることには間違いが無いのですから、責任はどこかで取って頂きたく存じます」

「こ、このっ」

 男は、何事か云うまえに、ルーディに拳を向けた。

 それを、すいっとよけて、酒場の主人は、男の腕を取ると、軽やかな体さばきで妙な方向に曲げた。「お上品で軟弱者」の行動では無い。

 シールも、ルーディを見上げて驚いた顔をしていた。

「い、いてぇっ」

「この若者は、もっと痛い目を見たことでしょう」

「こんなクズ知ったことかっ」

「続きを云わせていただきますが」

 男の叫びに構わず、ルーディは続ける。

「この傷害行為、営業妨害に限らず、ノア・カテのあるじとしては、これまでに相当あなたに迷惑しているんです。あなた、どれほど支払いが滞っていると思います? あなたご自身のIDで顧客リストを作成しているにもかかわらず、あなたがご利用の口座にはもう、残高がだいぶ前から残ってはいないんですよ。クレジットの残金も尽きておりまして。…どちらにしてもそろそろ、保証人であられるお父上に連絡を取らなくてはと思っていたところなんです」

 さあ…と男の顔色が変わる。

「…あなたのお父上は、ドラ息子のおもりに相当辛酸を舐めておられるようですね。…もう一度云いますよ、あなたの口座には、お金がありません」

「……」

「どちらがクズですか? 私にとっては、あなたの方がクズです。…この若者は、ちゃんと酒代を支払って出られましたしね」

 逃れようと男は肩を揺すっているのだが、到底若いとは云えない年齢でしかも細身の、この酒場の主人のどこにそんな力があるのかと、恐ろしくもあるほど、身動きがならなかった。

 ルーディは巧妙に、男の腕を絡め取っている。

「……う、ぐ、い、いてぇっ、分かった、から、離せ…」

 男は、ルーディの言葉に返答はせずに、呻いた。

「同じことをこの若者も云いましたね」

「……ぎゃっ」

 ぐ、とルーディが手に力を込め、男が悲鳴を上げた。

「あんたはどうも、私を見くびっておられるようだ」

 ルーディが冷静な声で云う。

「あんたのお父上がどんな人だか私は知ってますが、そういう肩書きが私に通用すると思ってはいけない」

「……」

「もう少し世間を知りなさい、『偉い人』の息子なら。『ノア・カテ』のあるじ、『カテ・コー』の社長を、敵に回してはいけません」

 それだけ云って、ルーディは手を離した。

 がっ、と鈍い音を立てて、男が膝をつく。

 …その間に、シールはやっと息が整い、ゆるゆると立ち上がる。

 その様を、ルーディが苦笑して見ていた。

 シールのルーディを見る目は、相変わらず驚いている。

 何か問いたげなシールを、ひとまず、軽く首を振ることで制して、ルーディはシールと入れ替わりに倒れ込んだ男を見下ろした。

「ノア・カテの顧客リストからは、名前を外させて頂きますからね」

「う、くっ…、た、頼まれたって、行ってやる、もんかよ…」

 男はそんなことを呻き声で云った。


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