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 椅子に座ると、ルーディが近寄ってきて、シールに聞いた。

「いらっしゃい。何にします?」

 カウンタテーブルの板を見ていたシールは、その声に顔を上げた。

 ルーディがにっこり笑って、テーブルに何かを置いた。そして、テーブル板に手を突っ張る。

 シールは、再び俯いて、置かれたものを見る。

 二つに折られたそれは、革が張ってあって、表に「MENU」と書いてあった。

 シールは、目をしばたたかせた。

「…随分、旧式なことやってるんだな…」

「まあね。今時の注文方法が出来るテーブルもあるけど、利用する人は滅多に居ませんね」

 飲み屋にしろレストランにしろ、MENUというのは、テーブルに備え付けられた「ボタン」や「パネル」であることが普通だ。それを押して注文をすれば、少々の時間を置いて、目の前にチューブを通って料理や酒が現れる。

 シールは、少し戸惑った顔をした後で、MENUを開いた。

 プラスティックに刻まれた文字を、ざっと見つめる。

 「DISH」と「COCKTAIL」のカテゴリを、吟味した。

 聞いたことのない…というより理解出来ない言葉が並んでいる。「何とかの何とかソース」とか「何とかの何々風味」とか、味の想像が出来ない。

 カクテルにしても、酒の名前とは思えない言葉が並んでいる。ブラディ・マリー? 血まみれのマリア? 何だこれは、と首を捻った。

 …その中に、「ノア・カテ」がある。

「何にします?」

 ルーディがもう一度問う。シールは、困った顔をしてルーディを見て首を傾げた後、わざとふて腐れた顔を作って云った。

「もっと分かりやすい名前つけろよ、飯と酒には…」

 シールの言葉に、ルーディがクスクスと笑った。

「何だ、この血まみれマリアって。物騒な」

「ははは、知りませんでしたか、極めて伝統的なカクテルの名前なんですが。説明は書いてあるでしょう?」

 確かに、MENUには、小さな文字でそれがどういうものであるのか、簡単な説明が書いてあるのだが…、そんなもの、いちいち読む気などしていなかった。

 一層、むっつりした顔をして、シールが云う。

「ウォッカ+トマトジュースって書いてりゃ分かりやすいんだ、ハナから」

「そんなのつまらないじゃないですか。それに『ブラディ・マリー』と名付けた先人のイマジネーションと洒落っ気に感心してくださいよ。…それに、マリアと云うより、メアリと読んだ方がよろしいですよ」

「……」

 シールは、ぶすっとした顔をして、頬杖を付いた。

「マリーって呼ばれてたマリアって女を知ってたからさ。しょうがねぇだろ…」

 と呟いてから、シールは、あ、と口を塞ぐ。

 過去を思い出したくないといつも自分で思っているくせに、いつも思い出して後悔する。

 悪い癖だ。

 ルーディは、ふーん、そう、とだけ云った。

「じゃ、飲み物はそれにしますか? ブラディ・マリー」

「要らない」

 慌ててシールは首を振る。

 血まみれのマリアを、飲むだって。

 冗談じゃない。

 何が先人の洒落っ気だ、悪趣味だ、と胸の中でだけ毒づく。

「じゃ、何になさいますか?」

 苦笑して、少しおどけた声でルーディが云う。

 シールはまたMENUを見る。そして、首を傾げた。

「…ノア・カテの説明は無いな」

 当店のオリジナル、としか無い。

 それを聞いて、ルーディは、そりゃそうです、と少し意地悪に笑った。

「オリジナルレシピを、まさか書きません」

「ベースすら書かないってのか」

「ええ」

 胸を張って大きく頷くルーディに、シールは苦笑した。

 ノア・カテは強すぎて、くらくらすることを既に知っている。

 さて、何にしよう、とシールは本格的に考える。

 …結局、シールは値段でしか吟味が出来なかった。

「ギムレットと、……サーモンのカナッペ」

「畏まりました」

 ルーディが頷いて、MENUを取り、奥に引っ込んだ。

 大体、味の想像はつかなくったって、ルーディの料理の腕前は知っているから、何を食っても飲んでも美味いのは分かっている。

 自分が考えるのは、支払いのことだけでいい。

 ……。

 ああ。

 俺は、今、客なのだな、と思いつく。

「お待たせ致しました」

 程なく、グラスと皿が目の前にやってきた。

 可愛らしく盛りつけをされたカナッペと、透き通る液体。

 …ルーディは、家で料理するときも、かなり見た目に拘っているようだから、店の中では一層なのだろう。

 完璧、悪く云えば、神経質そうにも見えるほど、非の打ち所がない見た目をしている料理だ。

 ……やっぱり、好きでやっているのだろうな、とシールは思う。

 会社経営の片手間でやっている店じゃない。

 顔を上げ、「ありがとう」と云うと、ルーディは、

「ごゆっくりどうぞ」

 と云って、少し離れた。

 え、と思ったが……、別に放っておかれたというのではないらしい。

 シールが顔を上げてルーディを見ているのに気づいて、ルーディは、「何か?」と微笑を見せて近づいてきた。

「い、いや、何でもない」

 やはり、にっこり笑って、少々離れ…グラスを磨き始める。

 ああ、俺は、客なのだな、ともう一度思う。

 そして振り返り、店を見渡す。

 もう一度、雰囲気がいいな、と思う。

 ……とても、リラックスしている。

 気を遣わせない程度に、ちらりとルーディを見て、シールは、成る程、と思う。

 干渉はしない。かと云って、放っておくこともない。

 ルーディというのは、そういう酒場の主人なのだ。

 シールは、ギムレットを一口飲んで、フウと息を吐くと、カナッペを一つ口に放り込んだ。

 美味い。

 いい店だな、とまた思う。

 こんなに、知らない他人が集まる店で、くつろぐことが出来るなんて…、すごい店だ。

 ルーディって、スゴイな、とふと思う。


 ゆっくり、ゆっくり、グラスと皿を空にして、…シールは一息つくと、席を立った。

 ルーディが、「お帰りですか?」と控えめに問いかける。

 ……不満が一つあるとすれば、ルーディのこの他人行儀な言葉だろうか。

 …だけど、最初に「俺とあんたが知り合いだという素振りも見せない」と云ったのはシールの方だ。

 どちらかと云うと、ルーディの方が、気安くシールに話しかけていた筈だ。

 シールは、それを思い出す。

「うん、ありがとう…、美味しかった」

 かと云って、そこで「はい」と云えるほど切り替えが上手くいかないので、シールは、表情だけは一見のようなつもりで、ぎこちなく微笑した。

 …ルーディが、くすっと笑った。

「それはどうもありがとう…」

「……また来て、いいかな」

 シールが、ぎこちないままの表情と声で云う。

 ルーディは、「おや」という顔をして苦笑した。

「いけない、なんて云う権利がどこにありましょう? 気に入って頂けたのなら、どうぞ何度でも」

 少しおどけた声で、ルーディが云う。

 シールは頭を掻く。

「じゃ、また来る。……いい店だな」

「ありがとうございます」

 シールは、扉に向かう。

 ルーディも、カウンタの中から、入り口の受付へ向かった。

 ドアが開いた受付の小部屋で、もう一度ルーディと顔を見合わせ、シールは

「……小切手でもいい?」

 と聞いた。

 ルーディはやはり、…他の客の目が無いところでは気安く、笑って

「そりゃいいですよ。君がそれしか持ってないことはよく知ってますもの」

 と皮肉な声で云った。

 シールは、ぶすっとした顔を作る。

 だけど、ルーディが気安く接してくるのが、…どこかで嬉しくもあった。

「じゃ、これ」

 と云って、小切手を出す。

 受け取ったルーディは、処理をして返す。

 ……減っている額面を見て、シールが首を傾げる。

「? MENUの金額より少ない」

「云ったでしょう、ビルの住人は、割引してるって」

「……あ、そうだっけ…」

「ま、親族のようなものでもあるから、もうちょっとおまけもしましたがね」

 ルーディは、シールに顔を近づけ、ひそひそとした声で云った。

 シールがそれを聞いて、鼓動を早める。

 ……いいのかよ、と思った後で、どこかがくすぐったい。

「…これから出勤ですか?」

 レジスタ端末を弄りながら、ルーディがさらりとした声で問う。

 シールは、一瞬口を噤み、

「いいや」

 と首を振った。

 ルーディがシールに顔を向け、「家に帰るの?」と訊いた。

「本当に、食事に来ただけ?」

「そう」

 シールは大きく頷く。

 ……出勤する気なんか、起きなかった。

「俺が、ここに来る時はさ」

「うん?」

「俺の休業日だと思ってくれよ」

 意識しておどけた声で、シールが云う。

「…商売してる俺が、客になりに来るんだ」

「ああ、そう」

 ルーディも笑って頷いた。

 その笑顔に、シールはどこかが、

 今度は、何故か、気持ち悪い。

 何で、笑うんだろう。

 ……ルーディが、俺のやっていることを、否定していないからだと分かっているけれど…。

「成る程ね。…私が休暇の日には、外食に出るようなものかな」

「そう」

 シールはルーディから顔を背け、「じゃあな」と云った。

 その態度が、何だか自分で、素っ気ないように思えて後ろめたくなり、

「……夜食、作っとこうか?」

 階段への扉を開ける前に、ふとシールが振り向く。

 ルーディは、ちょっと考えて、

「そうですね、君がそれまで起きているようでしたら、フリーザに入れてあるスープを温めておいてもらえますか」

「分かった」

 …シールは頷き、また「じゃあな」と云って、階段への扉を開けた。

「ありがとうございました」

 心からのルーディの…ノア・カテの主人の声を背中で聞いて、ルーディは階段を登る。


 地下から地上に立ち、シールは息を吐く。

 ほぼ真っ暗な路地裏だ。

 この道を、少し歩いて通りを変えれば、俺と似たようなのが何人か立っていて、俺すらも見下げるようないかがわしい店も連なっている。

 そんななかにある、ノア・カテという、…上品とも云っていい、くつろげる店。

 だけど、全然違和感がない、古ぼけた酒場。

 不思議な店だ。

 俺の職場である地上…ストリートより、下層に存在するのに、とても…そう、天国のような心地がして、なのに、この街にとても、似つかわしい。

「ルーディって、すげぇ」

 ふと、シールが呟く。

 そして、そんなルーディと、今は一緒に暮らしている自分は、どんな人間だろうかと、そんなことが頭を過ぎる。

 過ぎったのに気づいて、首を振る。

 そんなこと考えてると、多分、ルーディは俺をまた叱る。

 卑屈だとかバカだとか云って…。

 それに、自分でも、そんなこと考えてると、あの家に住むことが苦しくなってきそうだから、考えるのはやめなくてはいけない。

 あの家に住むために、仕事をしなくてはならない、それが、…ルーディがバカだと云う自分が、やっと少しは手に入れた自尊心と、価値観なのだから…。

 シールは、エントランスに戻りながら、考える。

 明日から頑張ろう、なんてことを思うような仕事をしているのではない。(それに、相変わらず、仕事をしたくない気分が、どこかに沈殿もしている)

 だけど、しなかったら、あの家に住めないということだ。

 それを確認をしながら、エントランスの扉を開く。

 カードを読ませて、パスワードを打ち込む。もう慣れた。

 エレベータが上昇し、ルーディとシール以外は知らない最上階へたどり着く。


 ……この家に、住むために、俺は、仕事をしなくっちゃ…。

 ベッドに倒れ込んで、自分に言い聞かせる。

 この家に、住むために、


 (ルーディと一緒に暮らすために)


 俺は、

 女を抱いて、

 男に抱かれて、--たまに、男も抱いて--


 金を、手に入れなくては…。


 そんなぼんやりした、とりとめない思考に、シールは自分で少しひっかかるものがあったのだが、ギムレットのせいなのか、眠気が襲いかかってきて、意識は無くなった。



2003.2.19

(加筆修正:2025.3.6)

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