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――シールも、別に、この役人に「ついて行きたい」訳でもない。それに、ルーディが思うように、ナーバス氏へ「手を差し伸べている」つもりでもないのだ。この役人のために、何かしようとしている訳じゃない。
下手に出るつもりも、一切、無い。
呆れた顔で「はぁあ」と大きな溜息をつくと、シールは、最初と同様の真摯な表情を役人に向けた。
「何度も云うけど、俺は〝ID〟の復帰は望んでない。でも、望んでいることが無い、とも云えない。けど、それは、俺があんたに頼んで叶えたいことじゃない。あんたの方がそれを、俺に『お願いします』って云うべきだと、俺は思ってる」
当然と云えば当然かもしれない――ルーディから「シールに謝れ」と云われたときと同じように、役人は顔をしかめて、シールを睨んだ。
シールは、彼の視線を真っ向から受け止め、見返す――ルーディの侮蔑が混じった冷たい視線と違う、「真剣」な目で。
もしかするとナーバス氏は、ルーディの時よりも動揺したのかもしれない――「何だと」と声にしようとした瞬間に、その目を見て、「う」と口を噤んだ。
会社社長は、全く理解の追いつかない価値観をぶつけてきたから、それこそ虎やドラゴン――「怪物」を相手にしているような動揺、恐怖があった――向いている方向が違うのだから「追いつかない」のは当然である。ルーディを含むセイレイシィの人間は「貴方方は何処を向いているんだ」と云っていたようなものなのに、ナーバス氏に至るまでそっちを理解しなかった……結局、「人と人」が対等であることを宜とするルーディを、〝地獄〟に棲まう怪物のように畏れを持って見下ろしていたが故の「今」だ――。
だが、この若者は、この役人にも理解が追いつく価値観で、無神経と云えるほどの率直さを伴い、言葉を投げてきた――追いつけていないのは「判断」なのだ。
だから、〝死人〟が墓穴の内から、己の立つ足場を薄く削り取ろうとしているのに動けない――あるいは、〝死人〟に追いかけられ断崖に向かって逃げてしまった結果、もう前にも後ろにも進めない。
今までの「マニュアル仕事」による実績で膨らませた〝風船〟は、余りに心許なく無意味なデバイスだった。この「怪物」が棲まう〝地獄〟へ向かうためには、〝己〟の制御と動力が必要だったのに、風に流されるだけの風船なんかで――。そして、墜落させられた場所は、彼の視野の狭さでは足場も確保出来ない墓地、進路の絶える崖――ナーバス氏自身にそんなイメージが過っていたかどうかは知れないが、「此処に来るべきじゃなかった」とは本人も実感し始めていたかもしれない。
役人が一つ「ごくっ」と息を飲む。
「理解」と「判断」が追いつかなくても、〝頑迷〟と云えるほど任務に忠実な彼だからこそ「培った」ものは、一応あるのだ。即ち、「交渉」「譲歩」。
「……それは、何だ。私が、君に頼むべきこととは」
――ルーディに云わせれば、それを訊いてくることそのもの……「自分で思いついて〝確認〟の形に出来ない」ことが「無能」の証だから、苛立ちがぶり返してしまった。
シールの方は「〝こいつ〟にしては、まともだ」と思ったので、少しだけ眼光が緩んだが、すぐに真剣な面持ちと声に戻る。
「さっき、ちょっと云ったぜ、俺。そんとき、具体的に『どうしようか』考えなかったのか? 俺が、あんたを『ビビらせる』ためだけに法螺吹いたとでも思ったのか」
役人は再び、息を飲んで唇を引き結んでしまった。つくづく、彼は、普段「自分の話を聞かせる」ことしか考えていないから、人の話を「聞く」「覚える」「思い出す」ことが苦手なのかもしれない――よって、ナーバス氏自身は自分が培った「メソッド」「スキル」だと思っている「交渉」と「譲歩」も、実は相当薄っぺらい――。
「……。あんたが一番、顔色変えてたじゃん。俺はもう殊更に逃げたり隠れたりはしない、誰かが〝シェレ〟に気づくことがあったらどうする、って云ったろ。下らないパパラッチには俺だって腹立ってるとこあるから置いといて、ちゃんとした報道記者相手なら、俺だって『金一封』と引き換えに吐くことは吐くよ」
「っ」
「――それを『スキャンダル』にしないために『どうするか考える』のは、俺じゃねえだろ」
役人は唇を震わせ、「な、何が望みだ」などと吐いた――ルーディに対しては店子を、シールに対しては大家を「人質」に取ってもそれを自覚していなかったくせに、「自分が脅迫された」気になるのは、相当早いらしい――ルーディは、思わず舌を打った。
「だから……。そういうんじゃないって。俺に聞くなよ、状況の想定と行動の選択肢は、そっちにあるんだよ。何も考えてねえな、あんた」
シールの声色は、嘆かわしい、とでも云いたげだった。
「しょうがねえな」と溜息をつき、シールはきっぱりとした声で続けた。
「俺の今の『望み』は、〝サン・ターシュ邸〟の物品が、真っ当に保管されてるのかどうかを『知りたい』ってことだよ」
「……」
ここまでに暴力を振るわれることや生命の危険まで仄めかされていたから、役人の方は拍子抜けしたふうに目を瞬かせた――役人よりルーディの方が余程愕然としたふうに「ひゅっ」と息を吸い、再び口を覆う。
「そ、そんなことで良いんなら、もっと早く率直に質問をしてくれれば……」
独り言とも愚痴とも付かないような声色でナーバス氏が云う。シールは、
「『そんなこと』なのか。よっぽど自信があるんだな、自分たちの仕事に。それは、俺への回答が『簡単』だってことか?」
鋭く厳しい声を返す。
役人は、「うっ」と怯んで直ぐには頷かなかった。だから、シールも問いを畳みかけた。
「――俺は真っ当に保管されてるかどうか、って云ったんだぞ。それを『知りたい』って望みを、『簡単に叶えられる』ってんなら、真っ当に保管されてると、思って良いんだな?」
「ど、どういう意味だ、それは……。そりゃ、万全のセキュリティを持って……」
「あんた達は『〝物品〟が〝サン・ターシュ邸〟にあった時』と同等の保管をしてるのか、って訊きたいんだ、俺は。両親とマリアが守ってきたように守ってるのか、って」
シールの、目つきも「いい加減な答えは許さない」と云うように厳しくなった。
――役人は、直ぐに答えられない。
「それが出来ているんなら、俺は、あんた達がこのまま、俺に何もせずに帰ったって一向に構わない。この先誰と知り合っても、どんなブンヤが接触してきても、俺は何も語らないことを約束する。何なら、今あんたの目の前で、〝シール〟って名前も捨てるよ、〝シェレ〟を思い出させないような、全然違う名前に変える。俺がこの街で野垂れ死んだって、あんた達には何の責任もない、既に〝死亡〟認定されてた人間が、あんた達の知らないところで、完全に居なくなるだけだ」
「……」
「だけど、そうじゃないんなら――あんた達が、万全のセキュリティを持った『金庫』に入れっぱなしだとでも云うんなら、俺は、赦さない」
厳しい目つきのまま、シールは、きっぱりと云った。
――ルーディが、手で覆った口の中で、「あぁ…」と嘆息した。
君が……、そんな心境になっていることが、私は、今、嬉しい。
だけど、そうか、君は――だから、私が赦しても、君自身が君を赦せずに――
君のそんな宣言を聞いてしまっては、私だって、「ここを出て行くことは仕方ない」と、そんな、ふうにも――だけど、それは、私が望んでいることではない――だけど――
ルーディ自身は、己の望みを表に出すことが、どうしても出来ない。
己の持つ〝箱〟の底に〝何〟があろうと、開けてしまうことそのものが災いの元となる可能性があるなら、ルーディは、絶対に封印を解こうとしない。
しかし、それはきっと、ルーディの「勘違い」であり「すれ違い」だ。
シールにとって、ルーディが「己の望みを口にすること」は、ルーディの持つ〝箱〟を開けることではなく、シールの〝箱〟の底に残った物を取り出すことなのに――
役人は体の脇で作った拳を震わせながら、引き攣った声を出す。
「……サン・ターシュさんご一家に、任されていた『保管』の仕方について、詳細を……我々は知らないから、君の質問に、イエスと答えることは、正直、出来ない」
――「答え方」が、それなりにまともになった――「嘘をつけない」ことが、今は、ちゃんと「美徳」として出ているので、シールが目つきを少しだけ緩める。
「……だったら、自分に与えられてる選択肢くらい、ある程度分かるだろ。少なくとも『国庫』に入れたままってのは、何か違う、くらい思わない? 〝俺〟が生きてた上、『赦さない』まで云ってんだぜ」
一度唇を噛んだ後、役人は、眉間に皺を寄せ、開き直ったふうな声を出した。
「っ……サン・ターシュ邸の品々は、当時、民間所有のまま、維持管理、保管と取り扱いを、サン・ターシュのご家族に任せるならば、という条件で文化財指定されたのだ。――これは、あくまで『私の』見解であるがっ――『所有権』が何処にあるかは取り敢えず脇に置いても、保管箇所や警備、維持管理の人員等、保守体制がこちらの方針に則ったものになっていれば、『事件』は起きていなかったと考えるっ。まして、君は『そこから逃げた』ではないか、『万全のセキュリティを持った金庫』に入っていることを、『赦さない』と云われる筋合いは無いっ」
役人の言葉に、ルーディの顔色……というより、雰囲気が、さっと変わったのがシールにも分かった――「刺したい」気分になったのかもしれない。
「成る程」
シールは、微苦笑の形に口元を綻ばせて、素朴に呟いた――ルーディ、止めとけよ。取り敢えず、こいつが、「我々」じゃなく、「あくまで私」とは云ったんだから、まだ良いじゃないか――。
――人の主張は聞いてないし、自分の機嫌には敏感で、その割に、不快感は意外と直ぐに忘れる、でも、「他人の責任」であると思えるデータなら覚えることは出来る訳か……いや、「でも」というか、「人のせいにする」ことが得意だから、〝後悔〟という己のネガティブな感情は忘れることが出来るのか。生きることが嫌にならずに生きるためには、〝長所〟だな――シールも、そう思い、納得した。
「実際、俺は、そういう家に反抗してドロップアウトした訳だから、反論できねーな。『文化財保存』の仕事してた親と姉貴が死んで、グレてた俺が生き残ったって〝意味が無い〟ってあんたは思ってんだろうし」
「――」
「でも、『だから何だ』」
シールは率直に言葉を投げた。――ふてぶてしく開き直った口調でもなかったので、役人は「うっ」と鼻白む。




